結局、門限ギリギリの帰城になってしまった。
 上がった息を整える。連日城外に出ているせいで門番とも既に顔見知りだが、一応通行証を示してから門をくぐった。これが文字通りの第一関門。の与えられた部屋は後宮の一角にあるので、この先さらに続く城門をくぐるたびに毎度誰何を受けることになる。

────そうしてようやくたどり着いた自室の前でを出迎えたのは、鬼の形相をした緑瑛だった。

先生! アンタこんな遅くまでどこ行ってたんだい。大王様がお呼びだよ!」

 蕞での怪我が悪化したのなら一大事である。はとりもなおさず携帯袋に必要になる薬を補充して来た道を引き返そうとした。

「分かりました! 必要なものがあれば使いを出すので、緑瑛さんは此処で待機していてください!」

 逸る気持ちで駆け出そうしたところで後ろから腕をひかれて盛大につんのめる。あやうく後頭部を強打するところで何とか体勢を持ち直した。

「緑瑛さんっなにを……」
「ちょっと待ちなよ。アンタそんな恰好で大王様の所に行く気かい? そりゃあ今からじゃ十分な支度はできないだろうけど、最低でも湯あみして、着替えて、化粧も直してかないと大王様に失礼だろう」
「だけど、まずは一刻も早く状態を確認しないと。処置の遅れが命取りになるかもしれないんですよ!」

 緑瑛は蕞の戦いで鈴とともに兵達の治療に当たり、最終局面では自ら弓を握って戦った女性だ。のせいで妹分の少女を亡くしたというのに、世慣れない鈴が心配だからとこうして後宮まで着いてきて鈴の助手を務めてくれている。過去には後宮で務めていた経験もあるらしく、にとっては非常に頼もしい存在だった。
 そんな彼女が悠長に化粧だなんだと言っているのがには理解できなかった。

先生、アンタなにか勘違いしてないかい? 呼ばれたのは今夜の“伽”だよ」
「はあ……?」

 予想もしなかった話に一瞬思考が停止した。
────いやいや、もしかしたら自分の知らない別の意味があるのかもしれない。は「と、伽って……?」と舌を突っ返させながら緑瑛に問い直した。

「大丈夫、心配するこたないさ。アタシの手に掛かれば今からだって後宮一の美姫に仕上げられるよ。可愛いは作れる!!」

 そういう事を聞いているんじゃない。

「緑瑛さんの腕は知ってますけど! そういう問題じゃなくて、大王様の夜伽なんて、熱望されてる方が列をなしてるんですから、私なんかが横入する必要ないじゃないですか。というか、そんな事したら、ただでさえ多い敵が激増しそうで怖いんですよ!!」

 力説する緑瑛にの反論の語気も強くなる。
 今ですら嫌がらせの嵐だというのに、夜に着飾って大王様の寝所に行っただなんて話が広まったらどうなるか。想像するだけでも身震いがする。
 そもそも治療の謝礼を大王様から問われた時、後宮の妃にという提案はきっぱり断っている。────大王様の名誉の為に言うと、『俺の妃になるのが一番の褒美になるだろう』と思い込んだ痛い勘違いなどではなく、大王様を治療した恩賞として現金一括支給を望んだに己はポケットマネーも人事権も殆どない傀儡だからと自虐全開の大王様から出された代案、高位の妃になれば金にも寝食にも困ることがないだろうという純粋な善意からくるものである。

「ははは、ごめんごめん冗談だよ。日中は政務で時間が取れないから夜に来てほしいんだってさ」
「緑瑛さん……心臓に悪い冗談はよしてくださいよ……」

 少なくとも緊急の用件ではなさそうだ。最初から緑瑛の手のひらで転がされていたのだと分かり、はがっくりと肩を落とした。

「悪かったよ。反応が良いからつい面白くなっちゃってさ。だけど先生、アンタあの大王様の夜伽を嫌がるなんて、もしかして、他に好いた男でもいるのかい? 」
「なっ……ちがっ」
「分かりやす……先生、もう少し腹芸ができるようにならないと、後宮で命がいくつあっても足りないよ」

 緑瑛に呆れ顔で指摘されてが己の頬に手を当ててみれば、風邪でもひいたのかというくらいに熱っぽくなっている。分かりやすすぎて反論したところで説得力の欠片もない。

「で、アンタが惚れた男ってのは、信千人将のことかい?」
「ち、違いますよ!」
「ふーん。じゃあ、蒙恬千人将だ」

 下手な反応をしないようにと意識すればするほど、うまく言葉が出てこない。死にかけの魚のように鈴が口をぱくぱくさせていると、緑瑛はなにか察したようにの肩に手をのせた。

先生……水臭いじゃないか。毎日城外に出かけてたのはそういう事だったんだね」
「というより、どうして緑瑛さんが蒙恬さんの事を知ってるんですか? 蕞の戦いには加わってないですし、接点なかったですよね?」
「そりゃ直接会ったことはないけどさ、蒙恬千人将といえば何かと評判のお方だからね。蕞でも後宮でもよく話題になってたよ」

 それ自体は特に驚かなかった。あの顔と人当たりのいい性格。武将として戦果も順調にあげてきている。それでいて決まった相手がいないとなれば、世の女性達の耳目を集めるのは当然の事だろう。

「それに、蕞に来ていた蒙家のぼっちゃんが介億様と話してたよ。蒙恬様と先生が天幕の中で抱き合っていたらしいって。ついに兄上も身を固めてくれるとかなんとか」

 抱き合うだなんてとんでもない!と即座に否定したかったが、記憶を掘り起こさなくてもすぐに思い当たる節があった。蒙恬の治療を終えて戻ろうとした時、不意に引き留められて蒙恬の上に倒れ込んでしまった時のことに違いない。恐らく、天幕の外で控えていた兵士に見られてしまっていたのだろう。

「その、あれは事故で……故意ではないんですよ……」
先生、心配しなくてもアタシはアンタの味方だからね! そうと分かったら、明日からはもっと気合入れて飾ってあげるから、期待しといとくれ!」

 緑瑛の中では完全に結論が出てしまったらしく、が何を言ってももう聞く気はないようだった。今でも後宮で舐められないようにと十分飾り立てられているというのに、これ以上どこに盛れる要素があるのかと鈴では想像すらできなかった。


***


「なんだ、治療は不要だと言ったはずだが?」

 治療用の簡素な胡服で訪れたに、大王様は柳眉を顰めて怪訝な表情を向けた。

「傷の具合は確認させていただきますよ。あくまで、私は医者として後宮に来ているのですから」
「お前がそうしたいのなら構わない。だが手を動かしながらでいいから話を聞かせてくれないか」

 許しを得たということでようやく大王様に近付き、首に巻かれている包帯をほどいた。化膿もなく順調に回復しているようで安心する。

「妃達はどうだ」
「どうだ、とはどういう事でしょうか?」
「何か、俺に言いたいことは無いのか?」

 漠然とした質問は困る。相手が何時でもこちらの首を切れる権限──物理的にも社会的にも──を持っている場合はなおさらだ。

「いえ、特になにもありませんが」
「そうか。妃嬪達とはうまくやっているのか?」

 大王様の意図がわずかながらにも分かってきた。
 全ての妃に近く接することができる医者という立場を利用して、なにか有益な情報を得ているのではないかと探っているのだろう。

「向様には大変よくしていただいております」

 忖度も嘘偽りもないの本心からの評価だ。向、そして陽の存在は地獄に残された僅かな良心、清涼剤、オアシスだった。