「まあ……そのお陰で古今東西の毒を体験できたのは良かったんですけどねー」
「なに、まさか毒まで盛られてたの?」

 あ、余計なことを言ってしまった。
 蒙恬の柔らかい雰囲気が瞬時に消え失せて周囲の空気までシンと冷えたような気がした。険しい顔で迫られては即座の返事に迷い舌がもたつく。

「うー、あー、あれですよ。あれ。ほら、後宮に入ることにした一番の目的は毒の研究だって言ったじゃないですか。秦国内では調達が難しい他国の希少な毒まで用意して“短期集中強化合宿”に協力してくれたと思えば、むしろ後宮の皆様には感謝したいっていうか」
「冗談だよね。何の毒を使われたのか知らないけど、嫌がらせで済まないものだってあったんじゃないの」
「それはそうですけど……でも生半可な毒じゃ研究になりませんし。医師団の指導も受けてますし、毒の種類は相手を締め上げて吐かせてますし。現に私はピンピンしてるんだから、それで良いじゃないですか……」
「そんなの結果論じゃないか。たまたま今まで死ななかっただけだろう」

 蒙恬の言い方は少し大げさじゃないかと思わず口をとがらせた。実際、毒を盛られることよりも、物を隠されるとか壊されるとか、そういった嫌がらせの方がよほど実害があって迷惑なのだ。
 それに此方がどうにか前向きに考えようとしているのに水を差されたようにも思った。

「……別に、蒙恬さんには関係ないのに」
「ハハッ……確かに、そうだね」

 知らずこぼしてから、後悔した。
 肩を強い力で掴まれて、振りほどこうと身を捩るが少しも緩まる気配がない。

「ちょっ痛いです。放してください」

 この人は紛れもない武人なのだと、こんな事で実感してしまう。抗議の意味で、肩を掴む蒙恬の手に自分の手のひらをのせた。

「……ちょっと! 安静が必要なのにこんな事で体調悪化させてどうすんですか!! ほら、早く寝所に戻りますよ!」

────触れた肌が氷のように冷たくなっていることに気づいた瞬間、それまでの逆立った感情は霧散していた。
 蒙恬の手をわしづかみにして自分の肩から引きはがし、そのまま脇の下に自分の体を差し入れる。体格差を考えればこれが鈴のできる精一杯だった。

「うわ、ちゃん力つよいね」
「……一人で歩けるなら肩かしませんよ」
「そーんなことないって。ほら、お願いしまーす」

 蒙家の邸なのだから今だって近くに使用人が控えていそうなものだが、様子を窺う気配は確かにあるのに誰も姿を見せず、手を貸してはくれない。
 諦めて一人で蒙恬を支えながら奥の寝所まで歩き始めると、嫌がらせのように伸し掛かる重みが増したのだった。


***


 関係ない、そんな当たり前のことを言われただけなのに、なぜか胃の腑の奥底がひどく冷えた気がした。だからって、それで力づくで彼女を引き留めようとしたのは完全に悪手だった────ポンコツで優秀な頭は、自分が彼女を怯えさせたのが初めてでないことを鮮明に記憶している。

 蒙恬を寝台に横たえた後、はてきぱきとした動作で薬を煎じ始めた。蒙恬の視線に気づいているのかいないのか、は黙々と作業を続けている。
 綺麗だな、とそんな感想が蒙恬の脳裏に浮かぶ。格子の隙間から射し込む光に照らされて、どこか神聖さすら思わせるその姿をなんとなく、乱してみたい衝動に駆られた。

「……ねえねえ、ちゃん。実際、大王の夜伽には呼ばれてるの?」
「はあ!? そんな事あるわけ無いじゃないですか。後宮には選りすぐりの美女が千人からいるんですよ!!」

 ようやく彼女の視線が此方に向いて、心の底にかすかに愉悦が浮かぶ。

「だけどちゃん後宮に入ってから色々と着飾ってない? その感じなら良い勝負できると思うよ」

 戦場にいた頃は髪も適当に結わえただけで、服だって“すくらぶ”とかいう簡素なものか、せいぜい着込んでいても男物の胡服ぐらいだった。それが今となっては、手の込んだ結い髪に笄まで挿して、動きやすさを無視した袍に身を包んでいる。唇には紅まで!

 煎じ終えたのかが椀を持って寝台までやってきた。
 蒙恬の背中に手を差し入れて上体を起こすのを手伝ってくれる。さすがに任せっぱなしは悪いと思うが体にうまく力が入らない。そんな蒙恬の体を起こすのは大変だったのだろう、少し乱れた息遣いが分かるくらいに近付いた顔に、首回りが熱くなるのを自覚した。
 まさかこんな距離感で兵士達の介抱をしていたんじゃないだろうな────

 意識し始めた途端にそれまで平気だったことがひどく気恥ずかしくなってくるから不思議だ。

「……ねえ、ちゃん。答えてよ」

 内に籠る熱が苦しくて、思わず熱っぽい息が漏れた。そんな蒙恬をは目ざとく見咎めて、非難めいた口調で椀を眼前に突き付けてくる。

「いいから先にこの薬を飲んでください。ほらー、無理するから熱が上がってきてるじゃないですか」

しぶしぶ椀を手に取った瞬間、すさまじい臭気が蒙恬の鼻を突いた。

「……ほんとーにコレ、飲まなきゃだめ?」
「ああ、すみません。飲みやすくなるように手を加える時間が無くて……でも、すぐ飲まないと悪化しちゃいますから」

 本気ですまなそうに眉尻を下げるを見て、嫌がらせと勘繰っていたことが申し訳なくなった。
 意を決して匙を取ったものの、少しかきまぜただけで更に強烈になった臭いにどうしても手が止まる。

「こういうのは一気に飲んでしまった方が楽ですよ」
ちゃんが飲ませてくれるなら頑張れるんだけどなー」

 蒙恬は冗談半分で言ってみたのだが、は言葉通りに受け取ったようだった。乳鉢と匙を手に取ると、中身を全部匙に載せきって蒙恬の前に突き出してきた。
────なんだか、こう、もうちょっと甘い感じを期待していたんだけどな。
 今から戦場に臨むかのような目の据わりようだ。

「ささ、一息に行きましょう。ぐいっと」

 一応、本当に一応、蒙恬の要求どおりに飲ませてくれようとしているのだから腹をくくるしかない。
 ちょっとした意趣返しのつもりで、の腕を握って自分の方に近付けた。少しくらい、そっちが動揺したっていいじゃないか。

「そうだ、この薬、味はそこまで悪くないので臭いを防げればかなりマシになりますよ」

 目論見は外れ、は手を掴まれたまま涼しい顔をして蒙恬の鼻をつまんできた。抗議のために蒙恬が口を開けたところで、すかさず匙が押し込まれる。

「んんっ」
「はい、ごっくんしてください」
「……子ども扱いしないでよ」

 現世での経験値は蒙恬が上回るはずだが、彼女の前世の分まで合わせると蒙恬の方が少し分が悪い。女の子に甘やかされるのは悪くないけれど、子ども扱いされるのは面白くない。
 しかし蒙恬が薬を飲み込んだのを見て満足そうに微笑むを見て、喉元まで出掛かっていたあまたの抗議の言葉は霧散してしまった。

「体調が悪い時くらい、大人だって人に甘えていいと思いますよ?」
「んー……じゃあ寂しいからちゃんに添い寝してほしいなー」
「いや、いやいやいや!……それは流石に無理ですよ!」

 ようやく動揺させられた。
 顔を赤くして慌てだしたの反応が面白くなって追及を続けてみる。

「えーなんでー?」
「もうすぐ閉門の時間なんで! 早く宮城に戻らないとマズいことになりますから!」
「ああ……もうそんな時間。じゃあまた明日、当然来てくれるよね? 俺の状態、見なきゃいけないでしょ?」
「ん、まあ……そうですね」

 まあ門限を破るとマズい事になるのは確かだ。蒙恬は明日の約束を取り付けたところで、を解放することにした。

「明日は食事も用意させとくよ。この邸の料理人は腕がいいんだ。信と河了貂も誘って昼食にしよう」

 数々の嫌がらせのせいで寝食にも苦労するという話だったから。とたんに目を輝かせた鈴に、蒙恬は料理人に一等良い料理を用意させようと心に決めたのだった。


***


先生! アンタこんな遅くまでどこ行ってたんだい。大王様がお呼びだよ!」