「……寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚、水行末、雲来末、風来末、食う寝る所に住む所……」
邪念を追い出そうと落語『寿限無』の一節をそらんじてみる。次は元素記号にするか、円周率にするか、徳川歴代将軍にするか。
蒙恬から奇異の目で見られているのは分かったがそれこその望むところだった。変な女だと、むしろ蒙恬の方から引いてくれたらあれこれ煩悶する必要がなくなるのだから。
「えっと、ちゃん。さっきから何を言ってるの?」
「人の名前です」
「人の名前?」
「はい、そうです」
中国語講座一日目のようなやり取りを真面目な顔をしてやって、結局いたたまれなくなって視線を俯けた。
「その、じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつくうねるところにすむところ……さんとはどういう関係なの?」
「関係? いえ、全く知らない人ですけど」
「へえ……そうなんだ」
一回聞いただけで覚えられるなんて、やっぱりこの人はすごいなと顔には出さずに感心する。
明らかに戸惑っている蒙恬に、この調子で行けば適度な距離が置けるのではないかとが意気込んだ時だった。
「ね、ちなみにちゃん、俺の名前は覚えてる?」
「……? 蒙恬さま、ですよね」
突然、至近距離から顔を覗き込まれてぎょっとした。漏れそうになった悲鳴を飲み下して何とか問いに答える。
しかし間違えていない筈なのに蒙恬はやけに不満そうだ。二つ名とかミドルネームみたいなのを聞かれていたんだろうか。さすがにそこまでは把握していない。
目線を反らすきっかけを探して「ちょっと傷の状態見せてもらいますね」とどうにか声を絞り出してから蒙恬の袷に手を掛けた。もともと手術後の経過観察の為に合流したのだから、さっさと目的を果たしてこの場から退散したかった。
「ね、ちゃん。目をそらさないで。俺の名前、もう一度呼んでみて?」
顎に手をやられて問答無用で上向かせられる。せめてもの抵抗でぎゅっと目を閉ざした。
「はは、それ誘ってくれてるの?」などと不本意極まりない解釈が聞こえてきて、の必死の籠城はものの数秒で陥落した。視界いっぱいに広がるイケメンの御尊顔に一瞬呆けて眺めてしまったが、すぐに我に返って声を張り上げる。
「……蒙恬様っ悪ふざけはよしてください!」
「ん? ふざけてないよ。いたって大真面目」
「えっと、その。もしかして、怒ってますか……?」
朗らかで華やいだ状態が常の相手だけに、表情が消えているだけで何とも言えない凄みがある。何が竜の逆鱗に触れたのかには分からず、さっさと白旗を上げて教えを乞うしか他になかった。
「怒ってなんかいないよ。だけどちゃん、どうして信は信なの?蕞に行くまでは違ったじゃん」
「え……ん……?」
『どうして貴方はロミオなの?』的な禁断の恋の相談をされているのか、はたまた悟りを目指して禅問答でも始めたのか。
の脳内が疑問符で埋め尽くされたことに気づいたのか、蒙恬が苛立ったように眉根を寄せる。
「だから、前までは信のこと、“信さん”って言ってたよね。なんで急に呼び方を変えたの?」
「……別に、大した理由はありませんよ? 信からそう呼んでほしいって言われただけで」
そうなった前提として麃公将軍の死に際して信にきつく当たられた一件のことがあるわけだが、わざわざそれを話して隊長の評判を落とす必要もないだろうと、曖昧に説明する。
それでは納得がいかないのか、蒙恬の端正な眉を歪んだままだ。
「ふうん? だったら、俺のことも蒙恬って呼んでよ」
「え、や。それは無理です。できません」
「なんで? 信はいいのに俺は駄目なの」
理由を問われても理屈じゃないのだから説明しようがない。
何かもっともらしい理由を作ろうとは必死に頭を捻った。
「ほらだって、蒙恬様を呼び捨てになんかしたら胡漸さんや陸仙さんに何て言われるか分かりませんし……」
「えー? そうなの。じぃ、陸仙」
そう言って蒙恬が目線をやった先に指名の二人が居たものだからは仰天して眼を剥いた。側近の二人が近くに控えているのは当然の事なのだが、全く気配に気づいていなかったので非常に心臓に悪い。更にこれまでのの痴態を見られていたのかと思うと顔から火が出そうなほどに恥ずかしかった。
しかしピンチはチャンス────今、二人から男女の距離感について諫言があれば蒙恬もへのちょっかいを改めるかもしれない。
「滅相もない。お二人がそれで良いならば、呼び方くらい何の問題もござませぬ!」
「別に、好きにすりゃいーんじゃねえの?」
わあ、四方から楚の歌が聞こえるぅ……。
胡漸、陸仙の諫言を当てにした結果、墓穴を掘ることになって項垂れる。
「ほら、これで誰に遠慮することもないよ。さ、蒙恬って呼んでみて?」
「だ、だったら。仲良くされている御令嬢方にはなんて呼ばれているんですか? 私だけ違うのはよろしく無いと思いますよ!」
「それを聞く意味ってある? 俺は君に、言ってほしいんだよ。蒙恬様なんて他人行儀な呼び方はもう止めて。あ、呼び捨てに抵抗があるなら『恬恬』でもいいよ?」
にっこり、という表現がしっくりくる笑顔に圧倒されて反論は胃の中に引っ込んでしまった。ぐぬぬ、なんてまさかリアルな生活で言うことになるとは。
しかも『恬恬』ってなんだ。上野のパンダか。むしろ親密度が上がってるじゃないか。この辺りで折れておかないと、かえって要求がエスカレートしていきそうな予感がする。
「……そうですね、分かりました。じゃあ、間をとって『若様』というのはどうです?」
「んー…とりあえず一回言ってみて?」
苦し紛れの提案だったが思ったより悪くない反応だ。案外、これで追及をやり過ごせるかもしれない。
「若様?」
「…………やっぱダメ」
長い沈黙が続いたかと思えば、わりと強い口調で拒否されてしまった。表情は普段と変わらないので別に照れているわけではないのだろう。
何が気に入らないのかと尋ねても蒙恬は答えない。はほとほと困って天を仰いだ。既に日が傾きかけている。いい加減にここを離脱して引き返さないと、今日中に飛信隊と合流できなくなってしまうだろう。
「分かりました。じゃあこれからは“蒙恬さん”と呼びます。王賁さんと一緒ですよ。それで良いですよね?」
「まあ今は仕方ないか。蒙恬でも恬恬でも、呼びたくなったらいつでも変えていいからね?」
としては、これ以上蒙恬と距離を縮めるつもりはないので呼び方は一生変えない予定だ。試しに「恬恬」と口の中で転がしてみたらとんでもなく気恥ずかしくなって、たまらず顔を覆った。
「ちゃん、どうかした?」
「いいえ、何でもありません!」
気付けば蒙恬の顔が至近距離にあって、咄嗟に身体をのけぞらせた。そんなのを蒙恬は面白そうに観察している。
「ふーん? ま、いいや。咸陽に戻ったらウチにも遊びに来てね。待ってるから。それに後宮でいじめられたら、さっさと辞めちゃえばいいよ。ちゃんなら楽華隊はいつでも大歓迎だから」
「はは、別に医者見習いなんて誰も歯牙にかけませんよ……」
さすがに蒙恬の考えすぎだと、この時のは思っていた。
***
────後日、咸陽・蒙家の邸にて。
がぐったりとした様子で卓子に突っ伏していた。もてなしに出された茶が衝撃に揺れて零れそうになっている。
「あの後、後宮でめちゃくちゃいじめられました……」
予想通りの報告に蒙恬は苦笑を漏らした。
すると思わず笑ってしまった蒙恬に気づいたのか、がよろよろと身体を起こして不満そうに顔を歪める。
「ごめんごめん。君を笑ったわけじゃないんだ。何というか、後宮の人達の反応が予想通りすぎて」
「医者見習いが一人増えただけなのに、なぜか後宮の誰に話しかけても『ああ、例の』って言って冷ややかな目で見られるんです。意味が分かりませんよ……」
そう言っては大きなため息を吐いた。曰く、医師団を介さなければ食糧や薬草も手に入らないらしく、相当な不便を感じているようだった。
「論功行賞もまだだし、君の功労ってあまり表になってないんだよね。それで、お抱えの医師団だってあるのにわざわざ大王様が呼び寄せた医者の女となれば、君の実力を知らない彼女達からしたら、新しい王后の候補かーとか、勘ぐったりするんじゃない?」
「さすがにそれは買いかぶりが過ぎるような……。そういうの詳しくないですけど、王后って他国の公主様とか、もっと貴い身分の方がなるものなんじゃないんですか?」
君だって本来は嬴の姓を持つ徐国の姫じゃないかとは口に出さない。徐は周代の亡国だからとかなんとか話がそれていくのは良くないだろう。
「実際、これまではそういうことも多かったみたいだし、当代の後宮にも各国の公主がいるらしいね。だけどほら、ついこの前に合従軍の侵攻があったばかりだろう? 後宮にいる公主達もこれまでのように大きな顔はできないんじゃないかな。まあ、大王様は王権の強化を望んでいるようだから、他国の王族が後宮に入ること自体もともと面白く思ってはなかっただろうけど」
────つまり、君みたいに後ろ盾がない子の方が后にするには都合がいいんだよ。
そうまで蒙恬が告げると、はこれ以上ないぐらいに渋い顔をして再び卓子に突っ伏したのだった。