大切な武具を自分のような小娘が借り受けるのは流石に図々しかったようだ。その自覚はにもあったので、やんわりと断られてから更に食い下がることはしなかった。
 男の手によって絶命した巨大な猪に目をやると、ふと一つの考えが頭に浮かぶ。

「ところでこれ……城に持ち帰ることはできないでしょうか」
「はあ!?」
「何言ってんすか?」

 思いつきで発言した途端に両側から非難の目を向けられる。ただでさえ狭いの肩身は最少記録を更新しそうだ。

「む、無理ですかね……?」
「まあ……小分けにしたら手分けして担ぐことはできそうだけど……。薬草もあるんだから一度に下までおろすのは無理だし、この崖を何往復もすることになるよ。そこまでして持ち帰ってどうすんのさ」

 ため息とともに胡乱な目が向けられてはしどろもどろになりながら必死に説明を続けた。

「その……皆さん怪我をされているから、新しい血肉を作るには獣の肉が必要なんです。城内に干し肉はまだ残っていたようですが、重傷者が硬い干し肉を噛み下すことは難しいでしょうし、せっかく新鮮な肉が手に入ったなら、これを利用しない手はないかと思ったんですけど……」
「さすが殿! そうであれば如何にしてもこの肉は城に持ち帰りましょう! ご安心ください、俺がこのまま担いでいきますから!」

 男は目を輝かせながら猪の体を担いでみせた。100kgはありそうな巨体だ。はらはらしながら見守るの前で、男の息は荒くなっていき、額に脂汗が浮き出てきた。どう見てもこのまま城まで運べるとは思えない。

「やっぱり手分けして運びましょう! 私、こう見えて力はあるんですよ!」

 が腕を折り曲げて力を籠めると二の腕に立派な力こぶが現れる。21世紀の知識と古代の運動量の相乗効果によりの体はそれなりの“細マッチョ”に仕上がっているのだ。

「それは分かったけどさあ、そもそも猪一頭じゃ何の足しにもなんないよ。……この戦で半数近く死んじまったけど、それでも蕞の城には二万近く人間がいるんだ。そのでっかい猪でも使える肉はせいぜい二百人分。あと九十九頭は必要だよ」

 としてもこの一頭で住民全員に行きわたるとは思っていなかったが、具体的な数字を出されると己の無謀さが浮き彫りとなって一気に恥ずかしくなってきた。
 が押し黙っていると彼女はまた一つ大きなため息を吐いた。

「まあ……全員じゃなくて、アンタが言うように干し肉が食べられないくらいの重傷者に優先して割り当ててみるかい? ……まったく調子いいね。さっきまで泣きそうになってたっていうのに」
「いや、そんな、自分の我儘が通らなかったからって泣いたりしませんよ! 子供じゃあるまいし!」

 とっさに反論したの両頬を女が摘まみ容赦なくぐいぐいと引っ張った。突然のことでなすがままにされるの目尻に生理的な涙が浮かぶ。

「アンタがどれだけご立派な医者だろうと、あたしからしたらアンタは妹みたいなもんだよ。危なっかしくて放っておけないんだ」
「だけど……だけど私がしっかりしてなかったから、ちゃんとしてなかったから、あの子は……!」

 最初は頬を引っ張られたことで押し出された涙だったはずなのに、彼女と面と向かって話すうちにあの時の光景が蘇ってきて、涙があふれだして止まらなくなった。情けなくて隠れてしまいたいのに、頬を掴む彼女の手がそれを許さない。

「ごめんね、あの時は。城内に趙兵が入ってきた時……アンタのことを探してる奴らがいたんだ。それをあの子に言ったら、何も言わずに飛び出して行っちゃって……。あたしは、あの子が何をするつもりか分からなくて、止められなかった。あの子、ああ見えて足が速くってさあ……全然追いつかなかった。アンタのナリをしたあの子が連れていかれそうになったのに、あたし、弓を射かけることもできなくて。それで、暴れたあの子が趙兵に斬られて……血がね、全然止まらなくて、アンタに止血の仕方教わってたのにさ、ぜんぜん、あたしじゃ止められなくて。分かってたんだよ、もう助からないって。なのに……ごめんよ、アンタなら何とかしてくれるんじゃないかって勝手に期待して叶わなかったからって、八つ当たりしちまった。アンタは何も悪くないよ」
「だけど……」
「しつこい! あのね、最初に言ったでしょ。私達は自分の意思で蕞に残ったんだよ。それに、あの状況でアンタのふりをすればどうなるかってことを分かってて、あの子はやったんだ。それなのにアンタにいつまでもウジウジされたんじゃ、あの子も浮かばれないよ」

 そこまで言われてようやくも気が付いた。あの子の死を一番悔やんでいるのは目の前の彼女なのに、これ見よがしに思い悩むのせいで思い切り嘆くこともできないということに。
────麃公将軍に言われたじゃないか、医者が辛気臭い顔をしていたら治るものも治らないって。

「……すみません。あの、ありがとうございます。私……やれるだけの事をやってみようと思います」
「全く……それはそれで無茶しないか心配になってきたよ」

 苦笑とともに頭をぐりぐりと掻き回されて、の頭は鳥の巣のようになってしまった。
 憮然としつつ髪を結いなおそうとが髪紐をほどいていると、横から紐を奪われて取り返す間もなく、あれよという間に見事な結い髪に仕上げられてしまった。鏡もないので全体像は分からないが、触った感じ崩れる気配もなく、なにやら複雑な細工もされている様子だった。

「あ、ありがとうございます!」
「アンタ、なかなかの美人なんだから、それくらいちゃんとした格好もしてみなよ。大王様の治療だって、アンタがしたんだろ? その恰好で頼みにいけば、治療の見返りに妃嬪にだってしてもらえるんじゃないか?」
「私が? 大王様の後宮に入るんですか!?」
「そうそう。そりゃ、三女様みたいな後ろ盾は無いだろうけど、大王様の命の恩人ってのはある意味一番の後ろ盾じゃないかい?」
「な、なるほど……?」

 あまりに突拍子のない提案にはしばらく呆気に取られていたが、気まずげな兵士の咳払いでハッと我に返った。彼はあの間に猪を捌いて手分けして持ち帰れるようにしてくれていたようだ。
 そんなこんなで、薬草の採取に予定より随分時間を取られてしまっていた。慌てて蕞の城へと戻る道すがら、の頭の中では大王様から問われている褒美のことが、ぐるぐると渦を巻いていた。


***


 ゴトゴトと未舗装の道を馬に曳かれた荷車がゆっくりと進んでいく。はすっかり慣れ親しんだ荒っぽい揺れに身を任せながら、ここしばらくの嵐のような日々について思い返していた。

「────ちゃん」
「あ、蒙恬様。お目覚めになりましたか」

 声につられて視線を向けると、荷車の中央に横たえられていた蒙恬の目とかち合った。

「どうして君がここにいるの?」

 蒙恬の疑問は尤もなことだった。はどこから話したものかと少し考えた後、戦勝に沸く万の兵が生み出すこの喧噪の中でも声が通るよう、蒙恬の傍ににじり寄った。

「……蕞での戦いのあと、函谷関に残した人達と合流するために貂達と北道を下っていたんです。そうしたら、咸陽へ戻られる楽華隊の皆さんと、つい先ほど行き合いました。それで、あとで貂達を追いかけないといけませんが、まずは蒙恬様の状態を確認してからと思いまして。せっかく休まれているところを起こしてしまうのは申し訳なかったので、少しの間、こちらに同乗させていただきました」
「そっか……。君がここに居るということは、信は無事なんだね?」
「それは、まあ……命と両手両足が残っているという意味では無事ですね」
「はは、そっかそっか。ならちゃん、あとで信に伝えておいてくれる? 療養するなら咸陽の城内に蒙家の別邸があるから、好きなだけ使っていーよって。俺の家そこそこ金持ちだから部屋も有り余ってるしね」

 信の家は風里という地にあると聞いた。それなりに王都から離れた場所にあるらしく、重傷を負った身体では移動だけでもかなりの負担になるだろう。

「それは有難いお話ですね! 信は論功行賞で近いうちまた王都に呼び出されるでしょうから」
「やっぱ今回の信の武功は頭一つ抜けてるよねー」

 そう言って蒙恬は趙将万極の討伐に始まる信の活躍を一つずつ挙げ、しみじみと息を吐いた。
 そこに嫉妬の色が全く見えないのは、やはり彼が文官志望だからなのだろうか。

「いまは父上や王賁達が合従軍を追撃しに出ているから、論功行賞はまだしばらく先だろうね。その間、河了貂もちゃんも信と一緒にウチに居たらいいよ」

 合従軍の背を追いかける蒙武将軍達の帰還を待つとなると、論功行賞はひと月以上先のことになるだろう。その間、信や貂だけでなくまで居候させてくれるとは何とも太っ腹な提案だ。貂と約束した王都観光だって自在に出来るだろう。
 は必ず信達に伝えようと心に決めつつ、一方で不都合な事実があったことを思い出していた。

「……すみません、蒙恬様。私はそれにはご一緒できそうにありません」
「え、なんで? もしかして故国に帰ることにしたの?」

 善意の申し出を断ったことが癇に障ったのだろうか。蒙恬の目が鋭く細められる。
 徐に帰郷したいのは山々だがそれは当分叶いそうにない。

「いえ、徐に戻るわけでは無いのですが……私はこの後、王都に着いたら後宮に入る事になっていまして。一応、そちらでお部屋もご用意頂けるそうですし」
「んん、こうきゅう……? それってどのこうきゅう?」

 蒙恬とここまで話が噛み合わないのも珍しい。いつもなら一を聞いて十どころか百を知るような人なのだ。
 それにしても、ここまで来て未だが他国に寝返るだろうと蒙恬に思われているのは何だか癪だった。
 は小さく息を吐き出すと、できるだけ余裕たっぷりに見えるよう、ゆっくりと一言一言に力を込めて言い放った。

「どのって……秦国の大王様の後宮ですけど。それが、どうかしましたか?」