大王様が立ち去り部屋に一人になったとはいえ、二度寝をする気分には到底なれず。
 のそのそと寝台から起き上がったは、肺いっぱいに空気を吸い込み、これでもかと吐き出した。そうすると嫌な気分も一緒に出ていくんだと、前世の記憶の中で祖父が言っていた。

 自分の保身を図ったために一人の人間が代わりに殺されたことは、一晩明けた今もの胸を悔悟の念で塗りつぶしている。それでも城の中には治療が必要な人はまだまだ沢山いて、ここ数日休みなしで働いている救護班の人にも休息が必要だった。猫の手にも劣る自分ですら、居ないよりはマシと分かるほどに状況は悪い。
────いつまでも蹲っていたって仕方がない。
 重い扉を押し開け、駆けるように外を目指した。窓から差し込む夜明けの光が、の行き先を照らしてくれていた。


***


 救護所に入るとを心配する声が次々と上がった。救護班の面々からだけでなく、横たえられた負傷兵達からも声が掛けられる。

先生!」
「昨晩倒れられたと聞きましたが、大事ないのですか?」
「みなさん、ご心配おかけしました! お陰様で十分な休息が取れましたので、代わりに皆さんは休まれてください!」

 倒れたといってもヤケ酒した結果のただの自滅なのだから、あまり心配されるとかえって恥ずかしくなる。気まずさを振り払うべくは忙しく働いた。
特に疲労が色濃い者達から寝所に押し込み、自分は重傷を負った兵達の様子を順番に見て回る。昨晩の内に亡くなった者も大勢いたらしい。敵軍が撤退していったことで、かろうじて気力で繋いでいた命がもたなかったのかもしれない────思わず弱音を吐きそうになり寸でのところで腹の底に飲み下す。必死に働いていれば薄暗い感情に囚われずにすんだ。

「では此方の方には、この分量で煎じた薬を飲ませてください」
「しかし先生、この薬草はもうすぐ底をつきそうなのですが……」

 が書きつけた処方箋を見た医者は困ったように眉尻を下げた。代用できる薬草を順に挙げていくがどれも大して残ってはいないらしい。

「この方の分は確保できそうですか?」
「はい、それは何とか」
「では、補充のためにちょっと森に行ってきますね!」
「はい? 先生自ら行かれるのですか!?」

 の何の気なしの申し出に医者は突然に声を荒げた。
医者の怒気に仰天したは悪戯を咎められた子供のように身を縮こませる。それから恐る恐る医者の顔を見上げ、その表情から推察して、ようやく彼が自分の身を心配してくれているという可能性に思い至った。

「あ……! えっと、もちろん、誰か一緒に付いてきてもらいますよ! 一人じゃ持ちきれない量になるでしょうし、この近辺の薬草の自生地は私では分かりませんから!」
「はぁ……それは当然ですよ。それに、必ず誰か兵士も供につけてくださいね。敵軍は撤退したとはいえ、残党が居るかもしれませんし。森には獣だっているんですからね!!」

 一瞬、男の背後に“心配性のお母さん”の幻覚を見たが努めて口には出さなかった。自分の命を軽く見積もっていたために一人の少女を死なせてしまったのだと、今のは理解している。


「────話は聞いた。森にはあたしが一緒に行くよ」

 では誰を連れて行こうかとが辺りを見回したところで、物陰から一人の女性が現れた。は名乗りを上げたその女性の顔を見て、しばらく息をするのを忘れて目を瞠った。
 彼女は、が死なせた少女を妹のように可愛がっていた女性、その人だった。

「あの、ですが、さっき郭先生が言われていたように外はまだ危険かもしれません。貴方を巻き込むわけには……」
「誰かが行かないといけないんだろ。あたしは多少腕に覚えもあるんだ。薬草のある場所だってだいたい分かってる。それに兵士も護衛でつけていくんなら心配いらないだろ」

 気まずい。一緒に行きたくない。必死に言い訳を並べ立てるからはそんな本音がにじみ出ていたはずなのに、彼女は気づいていないのか気づかないフリをしているのか、こともなげに論破してを黙らせたのだった。


***


比較的傷の程度が軽い男衆から一人護衛を付けてもらうことになった。馬に荷車をひかせて自身も背負子を背負い城外へと繰り出す。先導役を担う彼女の話では、崖を上ったところに薬草の群生地があるという。
 申し訳程度に設けられた足場を頼りによじ登るようにして崖を上り切ると、そこには桃源郷のような光景が広がっていた。

「うそ……! あれも、これも! こんなに貴重な薬草が山ほどあるなんて!!!」

 WHOOOOO!と興奮を抑えきれずにが鎌を振り上げながら走りだすと、慌てた様子の二人が後に続いた。

「ちょっと、後先考えずに突っ走らないでよ……! この辺は野生の獣だって多いんだからね!」
「す、すみません! これだけあれば皆さんに十分な量の薬が使えると思ったら我慢できなくって」
「だからってねえ、これじゃあ護衛の意味がないじゃないか!」
「そうですよ、殿! 先頭は俺が行きますから!」

 二人の剣幕には口をつぐんで項垂れるしかなかった。徐国にいた頃はタンパク質確保の為に狩猟も率先してやっていたので全く戦えないわけではないのだが、目の前の二人はが一言でも弁解すれば十倍返しにされそうな勢いだった。


***


 男は恐怖で干上がった喉をうまく鳴らすことができなかった。言葉になり損ねた空気がひゅうひゅうと音を立てる。

「お二人は私の後ろに下がってください! アレは私がなんとかしますから!」
「そんな事できるわけないだろう! アンタこそ、早く逃げるんだよ!」

 どうしてこんな事に────男の思考は後悔で塗りつぶされていた。手分けして薬草を採っていて、そしたら巨大な猪が森の奥から現れて、この時に素早く彼女達を逃がしていればよかったのに、猪が思いのほか大人しく、刈り取って積み上げていた薬草の束を貪り食うだけで此方を襲ってくる気配はなかったものだから、腹が満たされれば森に戻るだろう、と楽観視してしばらく猪の動静を見守ることにした。下手に動いて刺激するのもよくないと考えたのだ。
 猪は本来それほど好戦的な獣ではない。そう、何事もなかったならば────

「……運の悪いことに猪が食べていたあの薬草、人間であれば軽い気付け薬になるのですが、猪に対しては殊の外強い興奮作用があったようです。まったく、野生動物なら危険な植物は本能でかぎ分けてもらいたかったものですけど! ともあれ、今ヤツに背を向ければ確実にやられます。逃げるのは悪手ですよ」

 こんな状況でも怯えた様子のない徐を男は信じられない思いで見る。まさかこの状況を打破する自信があるというのだろうか。しかし医者である彼女が武器を扱う姿など男は見たことがなかった。

「だけど今にもこっちへ襲ってきそうだよ!」
「お、俺は、こういう時のための護衛ですっ。お二人は俺の後ろへ!!」

 男は恐怖で本能的に固まっていた身体を意志の力で何とか前に動かした。護衛対象の二人に庇われるなど何と情けないのだろう。どもりながらも護衛としての責務を何とか果たさねばと、男は背に負っていた矢をつがえ、猪の眉間めがけて射かけた。

「チッ、クソっ!」

 思わず舌打ちが漏れた。弓の腕には自信があったのに、連戦の疲れか、突然のことに動揺が収まらないのか、理由はともかく、結果として男の放った矢は猪の体を掠めるだけに終わった。
 攻撃を受けて興奮を強めた猪がすさまじい勢いで此方に突進してくる。

終わった、せめてこの身を盾にして、彼女達を守らねば────

「俯くな!! まだ何も終わってない!!」

 一軍の将と一瞬聞き間違えるほどの熱い檄に男はハッとして顔を上げた。
 目を見開いて目の前の事実を何とか飲み込もうとするが、結局ただ目を白黒させて立ち尽くすしかなかった。

「────先生! アンタ、やるじゃないか!」
「はぁ……良かったです。私のわがままで此処に来たのに、お二人に怪我でもさせていたら皆に顔向けできなくなるところでした」
「それって軟鞭ってヤツかい? 一発であのデカい猪をしとめるなんて、随分手慣れてるじゃないか」
「まあ、猪で良かったですよ。これが羆とかだと、流石にちょっと此方の分が悪いですから」

 が手に持つのは軟鞭という武具だった。石礫を先に固定して振り回し、勢いをつけてから放つ仕組みだが、あの僅かの間にそれを為し、激しく動く猪のその急所へ正確無比に当てたというのだろうか。

「あ、すみません。剣をお借りしてもよいでしょうか? 今は気絶させているだけですので、止めを刺さないと」
「……いや、着物が汚れますよ。それくらいは俺にさせてください」

 屠殺作業を肩代わりした程度で護衛としての面目が保てると考えたわけではない。ただ少し、彼女の手が──何かの命を奪う姿を見たくなかったのだ。