「どのって……“秦国の”大王様の後宮ですけど。それが、どうかしましたか?」
ちゃん、本気? 後宮がどういう所かちゃんと分かってて言ってるの。血を血で洗うような恐ろしいところなんだよ?」

 を世間知らずのうぶな小娘とでも思っているのだろうか。教え諭すような口調がとことん蒙恬に見縊られているように思えて無性に腹が立った。

「勿論それは覚悟の上です。いえ、むしろそのような所だからこそ、私は行く価値があると思っています」

────大王の後継を産み育てるために設けられた女達の園。二千人からいる宮女のことを信は羨ましがっていたけれど、それだけの女達がただ一人の男の寵を奪い合うのだ。信の思い描くような華やかで美しいだけの場所である筈がない。

「だったら尚のこと君が理解できない。どうして危ないと分かっていてそんな所に行くのさ」

 蒙恬は苛立ちを隠そうともせずにを詰りながら、の額に残る真新しい傷に手を伸ばす。
 続く痛みを覚悟しただったが、刺々しい口調とちぐはぐな優しい手つきに困惑して言葉に詰まる。

「……心配なんだよ。どうしてわざわざ自分から危険に飛び込むようなことをするの」

 蒙恬の指先が額に触れた瞬間に全身の熱が頬に集まったような心地がしたが、かえって頭の方は少し冷静になったようだった。回転を再開した頭で、この人にはきちんと説明をしなければと思い直して、はゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。

「以前、蒙恬様はおっしゃいましたよね。何千何万という人が同時に死に瀕するような状況で、どうするのかって。私……あの時は全然分かっていなくて。重傷者から順を追って治療をしていけば大丈夫だろうって軽く考えていました。……だけど実際の戦場はそんな甘いものではありませんでした」

 自分の力不足によって大勢の人を死なせてしまった────鮮明に蘇る苦々しい記憶に顔が歪む。

 すると額から下りてきた蒙恬の手がの頬をそっと撫でてきた。さわさわと擽るような手つきに思わず頬が緩む。

「うん、だから俺が君の傍にいれば、君が治療だけに専念できるように君が助ける必要がある人間を俺が選んであげられるよ?」
「……やっぱり、蒙恬様は優しいですね」
「はは。じゃあ後宮なんて辞めて楽華隊に来なよ」

 花が綻ぶように笑う蒙恬に、思わず流されて頷きそうになった。ハッとしてが首を勢いよく横に振ると、蒙恬は苦笑交じりに小首を傾げる。

「ねえ、どうしてそうまで後宮に行きたいの?」
「私は、選ばれた人しか助けられないなんて絶対に嫌なんです。誰も死なせたくない。でも今の私では無理だから……」
「君がそういう人だってのは分かるよ。だけど、それが何で後宮へ行くってことにつながるの?」

 そこまで言われてようやく、肝心なことが蒙恬に伝わっていないのではないかと思い当たった。にとっては自明のことで、わざわざ説明する必要性を感じていなかったのだ。

「あーえーっと……念のため言っておきますけど、私はあくまで医術を学ぶために後宮に行くんですよ……?」

 こんな事を敢えて言うと、まるでが他の可能性──妃嬪になるという選択肢が現実的にありえると思っているみたいだ。ものすごく自意識過剰な気がして目が泳ぐ。いじいじと手をもてあそびながら恐る恐る蒙恬の反応を待った。

「えっ、なんだーそうだったの!?」

 蒙恬の声は驚いたように少し弾んでいた。
 どうやらの見立ては当たっていたようだ。蒙恬からの評価をやたら気にしてしまっているという自覚はあるが、とにかく杞憂に終わったことにほっと息を吐いた。

「大王様のお計らいで、大王様専属の医師団の末席に加えていただけることになったんですよ。秦随一の医師達だと聞いていましたから、本当に願ってもない事で……」
「あれ、たしか後宮には別に専属の医者がいるんじゃなかった?」
「はい。ですが今はご懐妊中のお妃様がおられるということで大王様付きの医師団も後宮に常駐することになったんですよ。常駐といっても宮女と違って医師団は門限までなら自由に宮城を出入りできるそうですから、それなら蒙恬様のお屋敷に泊めていただくのと大差ないですよね」

 貂とは王都観光の約束をしているし、薬や道具の調達の為にも出入り自由というのは最も重要な条件だった。信が蒙家のお屋敷に泊めてもらえるなら、二人の経過観察も問題なく続けられるだろう。

「なるほどね。じゃあちゃんの一番の目的は“毒の研究”ってところかな?」
「あ、はいその通りです」

 ここまで散々かみ合わないやり取りをしてきたのに、いきなり核心を突かれて今度はの方が驚いた。

「今回の合従軍でも毒を武器とする敵将がいたと聞きました。私は解毒の知識に疎いので、医師団の知識から何か得るものがあればと思っています」
「そう。ねえ、だったらちゃん。君なら武器に毒を仕込むことってできないかな。例えば矢じりに毒があれば、正確に急所を射抜かなくても敵を戦闘不能にできるよね。狙ったところを射抜ける弓兵を育成するのってすごく大変なんだよ。それ以外の兵も遠距離攻撃ができるようになれば味方の損害をかなり減らせるんだけど」

 は蒙恬に言われたことを一呼吸置いて脳内で咀嚼した。蒙恬の理屈も一理ある。は徐国にいた十年の間、現代の知識を駆使して生活を安全に、便利にしてきたが、生理的な嫌悪感から兵器の製造開発に手を出すことはしなかった。────その結果、徐国は韓軍に抗うすべなく蹂躙されたのだけど。
 目的は味方の損害を減らすこと────こういう時に敵愾心や出世欲のたぐいが少しも滲まない蒙恬のことがは好きだった。
 しかしここで情に絆されて揺らいでしまったら、この先自分が“医者”でいられなくなるという確信があった。それに毒を作って人を傷つけるような──それがたとえ敵兵相手だとしても──そんな医者の治療を信頼して受けてもらえるとは思えない。

「……この先どれだけ毒の知識を身に着けても、私が人を傷つける為に毒を作ることは絶対にありません。これは、何があっても変わりませんから」
「そっか、分かった」

 蒙恬があっさり引き下がったことにが驚いた顔を向けると、蒙恬は苦笑しながらの頬をぐにぐにと引っ張った。

「そんなに意外だった? でも俺が説得したってちゃんは聞かないでしょ?」
「ぅはい、まぇあ……そぃう、でぁすね」

 嫌がらせとばかりに頬を好き放題にもてあそばれて、まともに返事もできない。抗議の意味で蒙恬を睨みつけると、今度は両の手で頬を包まれて、鼻先が掠めるような距離まで蒙恬の顔が近づいてきた。
 日常ではありえない距離感にの心臓は痛いくらいに跳ね回る。

「心配だなあ……困ったことがあったら、ちゃんと俺を頼るんだよ?」
「え、ですが、蒙恬様にそこまでしてもらう理由は……」
「四の五の言わない。俺がやりたくてやるんだから」

 真剣な眼差しに絡めとられてこれ以上は心臓が持ちそうになかった。怪我を悪化させないように最大限に気を配りながらどうにか蒙恬と距離を取る。

「……分かりました。いざという時はちゃんと頼ります。“私が説得しても、蒙恬様は聞いてくれそうにないので”」

 僅かながらの抵抗として後半部分を強調しておく。この場を乗り切るために承諾の体をとったが、蒙恬との関わりはできるだけ避けたいというのがの本音だった。
────傍にいればそれだけ、自分が彼に惹かれていくのが分かる。
 だけど彼は前途有望な若き千人将で、名家の嫡男で、片や私はなんの権力も後ろ盾もない異国人だ。この気持ちを育てたところで果実は実らない。不毛だ。

 そんな底なし沼に足を取られてる余裕、私には無いんだわ!