が救護所に着くと治療にあたっていた医者の一人が血相を変えて駆け寄ってきた。

「これは、先生……! なんと生きておられたのですか!?」
「え? はい、この通り……特に怪我もありませんが……」

 今日は朝からずっと外郭の方に出張っていて一度も救護所を訪ねていなかったのが良くなかったのだろうか。の前で目を剥いている男以外にも、誰も彼もが幽霊でも見たような顔をに向けている。

「とにかくご無事で何より! ここにいる患者はあらかた治療が済んだところです。先生はこれからどうされるご予定で?」
「そうですね……東と北の城壁はまだ回れていないので、薬を補充したら様子を見に行こうかと」
先生!! ここに居たんだね……!」

 突然の呼び声にと男は一斉に声の方を振り向いた。遠くから必死の形相で近づいて来る女性の顔には見覚えがあった。たしか、開戦前に道具の用意を手伝ってもらった二人組の女性の一人だった。

「あなたは……壁上の戦闘に加勢されたと聞いていましたが……その血は大丈夫ですか? どこか怪我をされているのでは」
「違う! これはあたしんじゃなくて……妹妹メイメイ、妹妹が大変なんだ! 先生、妹妹を助けておくれ! あたしじゃどうにもならないんだよ!」

 女性の着衣にはべっとりと血が付いていて、それが彼女のあの妹分一人の出血なのだとしたら、かなり危険な状態に違いなかった。

「どうして彼女が、あの子は戦闘には加わらなかったんじゃ……」
先生! とにかく参りましょう。私も同行できます」
「お願いだよ先生! あの子を助けておくれよ!」

 なぜあの子が────動揺が抑えられないまま、は二人に引きずられるようにして少女のもとへと向かうことになった。


***


 戸板の上に横たえられた少女を、は直視することができなかった。戦勝の空気にふわふわ浮き上がっていた気分が一瞬にして粉々に叩き割られた心地がした。

「ど、どうして、この子が先生の恰好を……?」

 ともに来ていた医者が動転した声をあげる。医者の言う通りだ。どうしてこの子があの服を着ているのだろう。あれは目立って危ないからと貂に言われて、今朝から救護所の方に置いておいたのに────
 は自分がひどく動揺しているのを自覚していた。浅くなっていく呼吸を医者としての矜持でどうにか押さえつけながら、少女の近くへと走り寄る。

「先生、お願いだ。妹妹を助けてやっておくれよ!」

 傍らに膝をついて、震えそうになる手を慎重に少女へと伸ばす。
 少女は目を見開いたまま横たわっていたが、その瞳にはもう何も映してはいなかった。少女の手を取ってみても脈は触れず、それどころか人としての温もりは消え失せ、指の先では既に硬直が始まっていた。
────の目に映る全ての事象が、少女の死を示していた。

「う、あ、ああ……」

 は冷たくなった少女の手をかき抱きながら、あふれる嗚咽を押さえることができなかった。

「先生! 泣いてないで早く妹妹を診て!」
「む、むりです。この子は、もう、亡くなっています。……蘇生はできません……」
「ですが先生ならどうにかならないのですか? 呼吸が止まっていても助けられた者もいましたよね?」

 は力なく首を振った。
 自分へ向けられた二対の瞳が失望に染まっていくのが分かる。

「どうしてっ! 先生、この子は、この子はあんたの身代わりになってこんな事になったってのに……」

 私の身代わり────それは少女の身なりを見た時から薄々気づいていたことで、けれど信じたくなかったことで、それが今はっきりと叩きつけられた。目の前で泣き崩れる彼女の為に何か声を掛けたいと思うのに、喉がつかえて言葉にならない。足は地面に縫い付けられたようになって、傍へ寄って背中をさすることすらできなかった。

先生、ここには私が残りますから貴方は他の患者の所へ行かれてください」

 に代わって彼女の肩を抱く医者の言葉に、は甘えた。感謝か謝罪か適切な言葉が見つからず、かろうじて黙礼だけ送る。
 少女の遺体がつきつける現実から目を背け、逃げるようにして、その場を立ち去った。


***


「……!」
「な、なに?」

 自分を呼ぶ声に緩慢な動作で顔を上げると、貂の顔がいきなり目の前に迫っていた。が声を詰まらせながら返事をすると、貂はほっとしたように表情を緩めての隣に腰を下ろした。二人の前では宴の火が焚かれている。

「戦勝の宴なのにどの怪我人よりも酷い顔色だったから。何かあったのか?」
「……うまく言えないんだけどさ、この場にいるのが私じゃなかったら……どうして私だったんだろう……私じゃなくてもっと腕のいい医者だったらって、つくづく思っちゃって」
「はあ? なんでそんな考えになるんだよ? オレはより腕のいい医者なんて見たことないぞ!」

 貂の憮然とした言い方から本心で言ってくれているのは分かったが、の心はどうしても晴れなかった。
 鬱々とした気分を紛らそうと折しも渡された酒杯を一息に呷った。かなり強い酒だったのか、喉に焼け付くような感覚が走ったのを最後にだんだんと世界が朧気になっていく。

「え、ちょっと!? だいじょ──」


***


「んん……」
「ああ、起きたか」

 が微睡みからゆるゆると覚醒に向かっていると、耳慣れない男の声が聞こえた。上半身だけ起こして重い瞼をこすりながら周囲を見回すと、判明した男の正体には目を丸くした。

「だっ、大王さま……何故、このような所に」
「先刻、信からお前が此処にいると聞いた。話しておきたいことがあったのでな」
「大王様をお待たせしてしまっていたなんて……遠慮なく起こしてくださればよかったのですが」

 一国の王を待たせていぎたなく寝ていたのだと思うと恥ずかしくて顔が燃えるようだった。すっかり覚醒した頭で大王の来訪の意図を考える。
 寝台から立ち上がる前に制されたせいでは上体だけを起こした中途半端な姿勢だ。本心を言えば寝台のすぐ横に立つ大王様から少しでも距離を取りたいのだが、これではそうもいかない。

「そう気にするな、俺が好きで待っていたのだ。この戦の功労者を少しでも休ませたいと思ってな」
「功労者ですか……私は何もなしてはいません。この戦の功労者は、蕞の住民達ですよ。彼らの奮戦が無くては敵軍を退けることは不可能だったでしょう」

 私は何もできなかった、それどころか────自分の身代わりで死んでしまった少女の姿が脳裏によみがえり、口の中に苦いものが広がる。

「ああ。少し先になるだろうがこの戦の論功行賞では必ず彼らの功に報いるつもりだ。……徐、俺が話しておきたかったのはそのことだ」

 大王様は民の前で演説した時の覇気が見る影もなく、肩を落として重い口で訥々と話す。それが少し──未来の始皇帝に対して大変恐れ多いことだが──年齢相応の若者らしくて、の緊張も少しずつ和らいでいくような気がした。

「はい。お話とは何でしょうか?」
「俺の命をこうして救ってくれたこと、感謝に堪えない。心よりそう思っている。だが……そなたの功を公けの場で賞することはできないのだ」
「なんだ、そんなことですか!」

 拍子抜けしたせいで思わず胸中の叫びが口から洩れてしまった。
 項垂れていた大王様の顔がはじかれたように此方に向けられて、は慌てて自分の目線を逃がす。

「そんなことか?」
「あ、いえその、大王様があんまり深刻なお顔で話されるので、もしかして異国人はさっさと秦から出ていけなどと言われるのではないかと、そんな想像をしていたもので……」
「それは“杞憂”というやつだ。異国人というだけで排斥されることはない。秦の発展は異国人によって支えられてきたのだからな。勿論、そなたが合従軍に内通し秦を陥れたというなら話は変わってくるが?」

 これに冗談でも頷いた瞬間には今世に別れを告げることになりそうで、は必死になって首を横に振った。

「ははは、戯れだ。話を戻してもいいか? 俺のこの傷のことは内々に収めておきたくてな。論功行賞でそなたの功を賞することはできぬゆえ、違った形でも礼をしたい。遠慮はいらぬ。何か願いはあるか?」

 負傷者を治療するのはにとって当たり前のことで、大王様から直々に褒賞の希望を問われるなど全くの想定外のことだった。
 すぐには思いつかずにまごまごしていると、大王様は笑いながら少しの猶予をくれた。

「今すぐでなくともよい。俺は今日のうちは蕞に留まり民を少しでも労おうと思う。出立は明朝になるだろうから、それまでに何か思いついたら聞かせてくれ」
「……承知致しました」

 気もそぞろに不格好な礼をとったを咎めることなく大王様は立ち去っていかれた。
 しかし嵐の去った後に落ち着いて大王様からの提案を反芻してみてもうまく頭が働かない。この時のは何もできない無力な自分にとことん嫌気が差していて、どんなに頭をひねり搾っても自分が叶えたいことも、手に入れたいものも、何ひとつ思い浮かばなかった。