蕞での六日目は未明から大王様の御尊顔を化粧で整える作業から始まり、その後は息つく間もなく救護班の人達と深夜まで治療に駆け回ることになった。今や蕞では女子供も戦闘に駆り出されるようになり、救護班の人手不足は深刻だった。そしていつ城が落とされてもおかしくない今の状況では、当初設けた交代制の休憩など意味をなさなくなっていた。

 ちなみに化粧をほどこした大王様は思わずため息が漏れる麗しさで、しばらく傍に付いて歩いたとしては誇らしさといたたまれなさとで心中複雑だった。閑話休題それはさておき

! 来てくれたのか。兵達を診てやってくれ。皆、酷い状態なんだ……」
「大丈夫だよ、貂。そのつもりで薬をありたけ持ってきた」

 敵は日が暮れると同時にすんなりと引き上げていった。そのお陰で達救護班も、こうして直接外郭まで来て兵達の治療に当たることができている。
 貂の話では、昨日の戦闘で大王様の存在が明らかになったことで、敵軍は大王様を確実に捕らえて王都咸陽を開城させるための人質にしようと考えているのだとか。

「政もそうだけど。案外、も狙われているかもしれないよ?」
「え、私? どうして」

 思いもよらないところから話が自分に飛んできては呆けた顔で貂を見返した。

「オレ達がここまで戦ってこられたのは、勿論、政が民の士気を限界まで高めたこともある……だけど士気だけでは限界があるだろう? が居なかったらここまでの戦いはできなかったと思うんだ。政が死なずにすんだのも、竜川や田有が前線に戻ってこられたのも、の治療があったからだ。もし敵がそのことに気づいていたら、なんとかしてのことを自軍に引き入れようとするんじゃないかな」

 手はそのまま動かしながら、今は敵将となった李牧の顔を思い浮かべる。
────その事ならもう結論が出ているのだ。李牧がを探すことはあるかもしれないが、それはを殺して将来の禍根を確実に絶つためだ。

「……分かった、気を付ける。でも蕞には同じ年頃の女性も沢山いるんだし、私個人を探し当てるのって難しいんじゃない?」
「敵がのことを知っているなら分かると思うぞ? って結構、どこにいても目立つしさ」
「え、うそ」

 貂の発言にはぎょっとして目を見開いた。固まりそうになったところを何とか持ち直して治療を再開する。一人二人と終えたところで、貂と共に信の治療に呼び寄せられた。

「ねえ……私、貂みたいに変なお面のついたミノムシ被ってないし、蒙恬様みたいにド派手な着物も着てないし、いたって普通の格好なんだけど……」
「変なお面って失礼な、これはオレの戦闘服なんだぞ! の方こそ、もう見慣れたけど、その“すくらぶ”?だっけ。そういうの着てるのってくらいだよ」

 の失言に貂はごく軽い調子で抗議をする。つい先ほど信の意識が戻ったからか、貂の声は思いのほか明るい。
 スクラブのことを指摘されて、は改めて自分の姿を見た。────確かに王賁には下着のようだと馬鹿にされたけれど。これがそんなに変なのだろうか。

が目立つのはその恰好だからってわけでもないけど、一応、明日からは着替えたほうが良いよ。……蕞もいよいよ危ないんだ。は秦の人間じゃないんだから、自分が生き延びることだけを考えて」
「なっ……」

 他の兵への気遣いからなのか耳元で小さく囁かれた言葉は、この場から自分だけがのけ者にされたような感覚にさせた。
 咄嗟に反論しようと口を開いたが、貂の真剣な眼差しに気圧されて勢いは萎んでしまう。うつむいて信の治療に手を動かしながら、ぼそぼそ呟くのがの精いっぱいだった。

「……生き残るときは貂も一緒。……私の力が必要なときは遠慮なく報せて。……信も、聞こえているんでしょう? 一緒だからね、ちゃんと、生きて戻ってきてよ」
「ああ……俺は何も諦めちゃいねえぜ……なあ、お前らだって……そうだろ?」

 信は横たえていた身体を少しだけ起こして、飛信隊の面々へゆっくりと視線を送った。
 やっぱり、信の声は不思議だ。不思議と勇気が湧いてくる。

 それは長く共に戦ってきた飛信隊ならば尚のことだろう。それからは皆めいめいに、大王様を交えてたわいもない話を語り合った。背中にその賑わいを聞きながら、は次の負傷兵達のもとへと向かった。────あの日常に戻れるまで、あともう少しのはずだ。


***


「カイネ、貴方はちゃんの顔を覚えていますね? 明日にも蕞は陥落するでしょう。あの子を説得して、こちらに連れてきてもらいたいのです」
「ハハ! ですが李牧様、城内にはまだかなりの女子が残っているはずです。秦王のように全軍に命じて探させたほうが確実ではありませんか?」
「いえ……その必要はありませんよ。これは、貴方と貴方の配下の者だけで行ってください。見つからなければ、それでも構いませんから……」


***


────その瞬間を、は西壁の高楼から為すすべもなく眺めていた。

「ああっ!」
「やめろォっ」
「うあああっ……!!」
「さ…蕞が、落ちてしもうた……」

 城内が蹂躙される様を見ているしかない壁上の兵達は、いまだ敵兵を前にしながら茫然として涙を流している。

先生……もう良いです……放っておいてくだせぇ……」

 は無理やりに気持ちを切り替えて目の前の負傷者の治療を再開したが、落城の報を聞いた男は、既に生きる気力を失ってしまっていた。それまで気力だけが男の命を引き留めていたのか、止血が奏功する間もなく坂を転がり落ちるようにバイタルが下がっていく。
 ついには呼吸が止まり、は急いで心臓マッサージに切り替えた。

「戻ってきて……! まだ、貴方だって…私だって…やれることが、きっとある筈です!」

 全力の胸骨圧迫は容赦なく体力を奪っていく。息を切らしながら、は自らに言い聞かせるように必死で叫んだ。


────援軍だ!! 西の山から! 騎馬の援軍が、趙軍を蹴散らしてるぞォ!!

 又とないタイミングでの援軍の知らせは、秦軍にとってまさに天祐となった。
 壁上の兵達は息を吹き返したように勢いを取り戻し、それは呼吸を止めた男にまで届いたのだろうか、自発呼吸が再開した────は汗と涙でぐしゃぐしゃになりながら、手早く止血の処置を進めていった。


***


「────李牧様。件の医者を城内に入った兵が発見したのですが……思わぬ抵抗に遭い殺めてしまったと、報告が……」
「……そうですか。仕方がありません。今はこの場を脱出することに専念しましょう」


***


 龐煖という異様な空気を纏った男が満身創痍の信と相対した時は実にヒヤリとさせられた。信が龐煖の矛を押し返しついには額に一撃を入れたことに、因縁があるという飛信隊の面々は歓喜の声を挙げていたが。

「信のバカ。あんなにボロボロだったのに龐煖に向かっていくなんて!」
「っ、テン叩くな。……いや、ちょっとくらい怪我が増えてもがいれば何とかなんじゃねえかと思ってさ。な、
「貂の言う通りだよ。あれだけ頭部を強く打って、肋骨だって何本も折れているんだよ。死んでたって全然おかしくなかったんだからね?」
「でもちゃんと約束は守っただろ? 生きて戻ったぜ……」

 そう言って屈託なく笑みを浮かべるのだから、としては頭の痛くなる思いだ。こめかみを押さえながら苦い笑いを漏らす。

 南壁の上の兵士達の治療は思いのほか早く目処が着いた。飛信隊の面々を中心に、ある程度の手当を相互にできるようになっていたおかげだろう。

 そして早くも宴の準備を始めているのだから彼らの逞しさには驚かされる。
 彼らの勢いに引っ張られているのか、夜通しの治療で疲労が溜まっているはずのの身体も不思議と軽やかだった。貂達にはしばしの別れを伝えて、の方は薬の補充のために城の中心まで馬を走らせた。