先生! 今までどこに行かれてたんですか!?」

 大王の治療を終えて解放されたは、再び蕞の医師達によって取り囲まれることになった。突然姿を消したを彼らが不審に思うのは当然のことなのだが、大王の治療に関して一切の他言を禁じられているとしては何も言えることがなく言葉に詰まる。

「すみません……薬草庫って薄暗いから眠気に襲われちゃったみたいで。気づいたら寝ちゃって、さっき目を覚ましたところなんです。無断で救護所を離れることになってしまって、本当にすみませんでした」
先生って……腕はすっごく良いのに嘘をつくのは童より下手くそなんですね」
「我々に話せない事情があるということですか」
「先刻、大王様の衛兵が先生の治療道具を持って行ったのと、大王様が南壁で負傷されたってのと、まあその辺りの関係でしょうな?」
「はははは……」

 人を診ることを生業にしている彼らだからなのか、がその場逃れに取り繕った嘘などすぐに見抜かれてしまったようだ。としては彼らの推論に肯定も否定もできず、どうにか笑ってごまかすしかない。

「……これ以上、先生を困らせても仕方ありませんね。今後、拉致される際は何か手掛かりくらいは残していってくださいね」
「うぇ、ぜ、善処します……」

 そうそう拉致されることなんてないとは思うのだが、医師達の剣幕に押されれば頷かざるをえなかった。


***


 そんな長い一日を終えたは、なぜか貂達のいる本陣まで呼び出されていた。
武将や軍師達の纏う重苦しい空気に、は早くも帰りたい気分になっていた。信や貂、蒙毅といったの顔見知りも何人かいたものの、この重い沈黙の中で彼らに「お疲れさま! 今日も大変だったね!」など軽々しく声を掛ける勇気はない。或いは蒙恬のような人なら、あの持前の陽のパワーでこの状況を打破できるのかもしれないが。

「────大王様を脱出させる。もはや明日、蕞は落ちよう。何があろうと大王様だけは死なせてはならぬ……大王様さえおられれば、たとえ蕞が、咸陽が落ちようとも、まだ再起の道はある」
「おい……分かってんのか、おっさん! 政がいなけりゃ蕞は戦えねェ。政を逃がすってことは、蕞を陥落させるってことだぞ! 蕞の連中が政のためにあんだけ踏ん張ってくれてんのに、それを裏切ろうってのかよ!?」

 口火を切ったのは大王様の腹心、昌文君だ。その昌文君の話にすぐさま信が食って掛かった。きっと、どちらの意見も間違ってはいないのだろうし、どちらも絶対の正解ではないのだろう。

「……殿」
「は、はい!」

 錚々たる面々の中で上座に座る男──確か介億という名だった──から突然に話を振られ、は飛び上がる勢いで驚いた。一斉に剣呑な視線が向けられて、さらに身体が縮みあがる。

「大王様を脱出させるとなれば今夜しかなかろう。聞くに殿が大王様の治療をされたというが、大王様の御体は脱出が可能な状態なのかな?」
「……それは、今の状態を見てみないと何とも言えません。通常であれば、まだ絶対に安静にしていただくところです。ですがこの時代、、、、の武人の皆さんの回復力には毎度驚かされていまして、私のこれまでの常識では測ることができませんので」

 介億の鯰のような髭が妙な動きをしたように見えたが、が瞬きする間には戻っていたので、気のせいだったかと特に尋ねはしなかった。

「……なるほど。では殿は大王様の所へ行って、今夜のうちに脱出が可能か診てくれるか」
「分かりました」
「さて、昌文君の考えは間違ってはいない。否……“英断”であろう。だが、大王様が『民を死地に置いて逃げる』ということを即座に受け入れられるかは、別の問題だ」

 そう言いながら介億は昌文君に目線を送った。無言で問われた昌文君は淡々とした口調で答える。

「それは問題ない。必ず、受け入れられる。大王様は、ご自身の立場を深く理解しておられるお方だ。……信、お前が大王様にお伝えしろ。あのお方はお前の口から伝えられるのが、一番納得されるはずだ」
「……」

 信は何も言わず、動こうともせず、しばらく、じっと昌文君の目を見返していた。
 そんな信の様子には掛けるべき言葉がすぐには見つからなかった。こういう時、麃公将軍の声がして、ぐずぐずするなと喝を入れられているような気がする。  短く息を吐き出して、気合いを入れてから信の背中をバシンと叩いた。

「信、行こう! 行ってみないと、私も分かんないから!」
「ああ……」


 ***


 大王様の休む屋敷にやってきた達は、長い廊下を歩きながら少しだけ話をした。

「そういや礼を言ってなかったな。、あんがとな」
「ん、何かお礼言われるようなことしたっけ?」
「政を助けてくれただろ。が居なかったら……俺、また大事なダチを失くしてたかもしれねェ」
「……そう。一緒に戦いに来てくれた友達って、やっぱり大王様のことだったんだ」

 ぽつぽつと話をしている間に、が大王様の治療をした部屋の前まで来た。
 外に控えていた衛兵に声を掛けてから、二人で扉を開けて中に入った。

「……お、ちゃんと生きてんな」
「ああ」
がさ、お前の状態を診たいってよ」
「分かった」

 会話自体はごく淡々としたものなのに、二人の間に確かな信頼関係があることがすぐに分かった。
 二人を他人事のように観察していたは、ふいに大王の視線が自分に向けられてどぎまぎと頭を下げた。

「徐、俺は起き上がった方が良いか?」
「あ、いえ。そのままで結構です。しかし大王様、もうご自分で起き上がることができるのですか?」
「ああ。多少ふらつきはするが、立ち上がって歩くことくらいはできる」

 大王の返答を聞いての胸中に安堵と心配とが一緒になって押し寄せてきた。
 大王様の身体は意外なほど鍛えられていたが、それでも日々戦場に身を置く武人たちには及ばないと思っていた。だから身体面の問題で脱出は不可能だと言い切ってしまえれば、正解のない選択を信達が迫られることは無くなると、そういう目算があっては此処にやってきた。
 その目論見が外れてしまったことになる。

「そうですか。では、御体を拝見いたします────」


***


 は一通り政の身体を見た後、眉根を寄せながら信の方に振り向いた。

「……信、大王様の言われたとおりだったよ。無理はできないけど……できると思う」
「そうか。じゃあ、お前は先に戻ってろ。政には俺から話をすっから」
「信一人で大丈夫?」

 は時々こういう顔をする。そのせいで信はなんだか、姉に心配される弟になったような感じがして、胸の奥が少しむず痒くなる。もっとも、戦争孤児の信には本当の姉弟関係がどういうものかは分からないのだが。

「ああ、心配すんなって」
「分かった。……じゃあ、行くね」
「……待て、徐。ひとつ頼みたいことがあるから外で待っていてくれないか。信との話はすぐに終わるだろうから」
「は、はい、分かりました。では終わりましたらお声がけください……」

 部屋を出ようとした所で政に呼び止められたは、信が初めて見るくらいに慌てふためいていた。バタバタと落ち着かない礼をして、なんとも格好の付かない感じで部屋を出ていく。

「カカカ。お前、に怖がられてんじゃねェか?」
「むしろ国王を前にして態度が変わらないのはお前や貂ぐらいだ。まあしかし、徐に治療を受けていた時は全くそんなふうには感じなかったんだがな」
「あー……は治療中は人格変わるからな」

 そう言うと政も思い当たったようで、ふっと力の抜けた笑いを漏らした。

「……ところで信。俺は蕞を離れる気はないぞ」

 真面目な顔つきに戻った政は、昌文君達がアレだけ頭を悩ませたことに対して、こともなげに結論を出した。

「……だよな」
「なんだ、お前は説得役を頼まれたんじゃないのか?」
「じゃあ説得に応じんのかよ」
「いや、無理だ」
「……だよな」

 そもそも南道を咸陽に向かって攻め上がる敵軍が居ると分かった時に、昌文君の言うような『大王様』なら咸陽に引きこもっていたって、都を捨てて身を隠していたって良かったのだ。信の知る嬴政という男は、民を焚きつけておいて見捨てるような人間ではない。


***


 ぶ厚い扉越しには中でどんなやり取りがされているのかは分からなかった。しばらく手持無沙汰で待っていたは、ようやく部屋の中から声が掛かっておそるおそると扉を開けた。

「……すまない、徐。待たせたな」
「いえ。それで、私に頼みたい事というのは何でしょうか?」
「ああ。俺は蕞を出るつもりはないのだが、どうせならこの身を有効に使いたいと思ってな。明日は『大王が壮健であること』を敵味方に広く知らしめようと思う」
「カカ、そんでお前に化粧を頼みたいんだと」

 既に大王と信との間で話がついていたようで、信は戸惑うをニヤニヤと面白がるように笑っている。

「ですが、大王様のお顔立ちでしたら、化粧など必要ないのでは? 下手に飾り立てたりしない方が本来の素材が生きてよいと思うのですが」
「……フハッ、ククッ」
「いや……血を失って酷い顔色になっているだろうから、それをどうにかしたいだけだ」

 油灯の明かりでは大王様の言う“酷い顔色”というのは正直よく分からなかったのだが、相応の血を失っているのは確かだから、日光の下で重症という印象を与えてしまってはならないのだろう。
 自分が恥ずかしい勘違いをしていたことに気づき、カッと頬が熱くなる。

「あ、ああー……なるほどー」
「クッ……、お前が顔赤くしてどうすんだよ」

 信は完全にツボに入ったのか、小刻みに肩を震わせている。

「まあ……そういう事だ。徐、明日はよろしく頼む」
「はぃ……」

 たまらず顔を覆う。
 今のには、引き受けることを大王に答えるだけで精一杯だった。