薬草の補充をお願いしようとして辺りを見回したが、手の空いていそうな人は誰もいなかった。薬草庫はすぐ近くだし自分で行った方が早いだろうと判断して、は救護所を離れたのだ。
────それがどうして、こんなことになっているのか。

「ぬぐぐ、んん、ぐぬうう」
殿、お静かに! 着いたら説明致しますから!」
「むぐぐ。んう、」

 薄暗い薬草庫の中で背後に気配を感じたのがついさっきのことだ。そこから振り向く間も与えられず目隠しと猿轡をされた。何が起こっているのか分からないまま袋のようなものに押し込められて、荷物のように持ち上げられた。それから何かの上に載せられたようで、荒い布を隔てて何か生物特有の熱を感じた。これは、馬の背中なのだろうか────
 あまりの手際の良さに素人の仕業ではないと確信した。そうとなれば抵抗は諦めておとなしくドナドナされる。犯人はこちらの体勢などお構いなしに全速力で馬を走らせるものだから、お腹が何度も馬の背に叩きつけられて吐きそうになった。しかし吐いたら袋の中で自分が吐しゃ物にまみれるだけなので、は必死になって嘔気を堪えるのだった。


***


 ようやく馬から下ろされたかと思えば、今度はそのまま男の肩に担がれた。規則的に上下する感覚は、どこかの階段を上がっているようだった。
 どうにか状況を把握しようと耳をすませば、戦場の騒ぎがかなり近くに聞こえてくる。もしかしたら城の外郭近くまで連れてこられたのかもしれない────


「────それで。こんな非友好的な手段で連れてきておいて、私に協力しろって言うんですか?」

 あれだけの事をされたんだから嫌味っぽい言い方になるのは仕方がないと思う。
 馬の積み荷扱いされたせいで軽い乗り物酔い状態になったし、無理な体勢が続いたせいで身体中が痛かった。ようやく自由になった手で強張った体をもみほぐしながら、は目の前に向かい立つ男を睨みつける。

「乱暴な手段になったことは申し訳なく思います。しかしあの場で説明するわけにはいかなかったのです。まずは、今から見聞きすることを絶対に他言しないとお約束いただけますか?」
「……面倒事の予感しかしませんが、分かりました。説明を続けてください」

 男の表情から読み取れるのは、強い焦燥、ゆるぎない使命感、反面、此方への敵意は感じられない。この場でがごねたとしても、男の意志が変わるようには思えなかった。

「では、ご案内いたしますので、私に付いてきてください」

 そう言うと、男はに背を向けて歩き始めた。敢えて灯りを減らしているのか窓のない廊下はひどく暗く、少し距離が離れると男を見失いそうになる。は長身の男の歩みに遅れないよう駆け足になって追いかけた。


***


 入り組んだ屋敷の廊下をどれ程進んだだろうか。急に男が立ち止まったせいでは駆け足の勢いのまま顔面を男の背にぶつけてしまった。男は甲冑を着込んでいるので、が受けた衝撃はなかなかのものだ。とっさには鼻の下を確認する。────よかった、鼻血は出ていない。

「此方です。あの、どうかされましたか」
「あ、いえ。何でもありません」

 人としての尊厳を保つために何とか平静を装って答える。男は少し訝しげに首を傾けながら扉を押し開けた。とたん鼻をついた濃密な血の臭いには思わず眉をひそめる。

「大王様にご挨拶を。件の医者を連れて参りました」

 を室内に入れるとすぐに、男が跪いた。そのままごく自然な動作で地面に額ずくものだから思わず面食らう。
 男が頓首の礼を取った先にはベッドに横たわる年若い青年がいた。突然のことに対応できなかったが礼も取らず棒立ちになっている間に、掠れた声で声が掛けられた。

「……楽にせよ」

────この人さっき“だいおうさま”と呼ばれていたけど……ん……んん? 大王様ってあの大王様!?
 何とか声を出すのは抑えられたが、脳内はこれ以上ないくらいに混乱していた。なぜ大王が大怪我を負っているのか理解ができない。いくら蕞の戦況がひっ迫していると言っても、城内への侵入は未だ許していない筈だ。まさか、わざわざ敵のいる城壁まで出向いていたのか? 全軍の将たるこの人が? 疑問は尽きなかったが、とにかく自分が拉致まがいに連れてこられた理由は理解ができた。

「……私は、大王様の治療をすればよいのですね?」
「はい。この方は不世出のお方。嬴政様が斃れれば秦国は終わりです。殿、どうか、どうかお願いいたします」
「頭を上げてください。見るからに重傷なのに治療をしないなんて選択肢はあり得ませんよ」

 があっさりと引き受けたのが意外だったのか、深く首を垂れていた男がはじかれたように顔を上げた。男がどんな答えを想像していたのか少し気になったが、尋ねる間を惜しんでは大王様の下へ歩み寄った。

「失礼します」

 全身を確認しながら触診も行い、骨折や体内に出血箇所がないか確認をした。やはり一番の問題は頸部の切創のようだ。

「圧迫止血をされていたんですね。これはいつから?」
「城壁から降りてこられた時には、もうそのようにされていたが……」

 傷の確認を続けながら後ろに控える男に問いかけた。しかし男が言うには、大王様に付いて城壁に上がった近衛兵は皆流れ矢によって斃れてしまい、当時の状況は分からないのだそうだ。

「……信から教えられたのだ。汚れていない布で傷口を抑えるようにと……」
「そうだったのですね! しかし大王様、これ以上は極力声を出さぬようにしてください。傷が悪化してはいけません」

 頸部を斬られたにしては出血量が抑えられているのが不思議だったが、そういうことだったのか。納得がいくと同時に、信がの教えた止血方法を覚えていてくれたことに少し頬が緩む。
 患部をふさぐ布を慎重に外すと、じわじわと傷口の奥から血があふれだした。動脈は無事でも中程度の血管には損傷があるのかもしれない。治療方針を組み立てながら必要な道具と薬を書きつける。

「これを中央の救護所に行って見せて、ここへ持ってきてください」
「承知した。誰かある!」

 男が声を張り上げると、すぐさま兵が現れての書きつけを受け取った。兵達が滲ませる緊張感が伝染したのか、背筋に冷たいものが走る。未来の始皇帝の治療をするのだ。もしかしなくてもこれは、かなりとんでもない状況なのではないか────
 せり上がってくる怖気を唾と一緒に何とか飲み下す。あの様子ならばすぐにでも道具を持って戻ってきてくるだろう。道具がそろい次第すぐに治療を始められるように、は携帯していた鍼で麻酔の準備をしていった。


***


 薄暗い倉庫で彼女の小さな背中を見たとき、男はやはり人の話など信じずに己で判断すべきであったと後悔をした。女の医者というのにもひっかかっていたというのに、目の前の当人は笄礼も終えていないような小娘だったのだ。 
 いくらあの時、その場にいた全員が先生なら絶対に助けてくれると言ったからと、それを素直に信じてしまった自分が愚かだった。

 僅かばかりの期待を胸に、男は娘を大王様の寝所まで連れて行った。しかし案の定、娘は大王様の状態を見て挨拶も忘れ固まっていた。
 男は逡巡する。治療が出来ぬのなら早々に帰すべきだろうか。或いはここで口を封じるべきか────

「……私は、大王様の治療をすればよいのですね?」

 治療ができるということか!?
 娘の発言は男の予想に反するもので、男は驚愕を隠せないまま娘を見た。本当か!?と詰め寄りそうになるのを押さえて、懇願の姿勢を示す為に深く腰を折る。

「はい。この方は不世出のお方。嬴政様が斃れれば秦国は終わりです。殿、どうか、どうかお願いいたします」
「頭を上げてください。見るからに重傷なのに治療をしないなんて選択肢はあり得ませんよ」

 きっぱりと言い切る娘の口調からは驕りも怖れも感じ取れない。この娘を推した者達の気持ちが、男にも少し分かったような気がした。


「……予め言っておきますが、これから私がすることに口を挟まないでくださいね」
「勿論だ。我々は大王様が助かるのならなんだってする。手が必要ならいつでも言ってくれ」

 口を挟もうにも医術の事など何も分からないのだ。だのに敢えて念押ししてくることに男は不安をあおられたが、もはやこの娘を信じて託すほかない、万一の時は────とひそかに覚悟を決めたのだった。


***


「なっ!なぜ、大王様の御体に新たに傷をつけているのだ!!??」
「だから口を挟まないでって言ったじゃないですか!」
「ああ、言った! 確かに言ったが! 首を切ったら死んでしまうだろうが!」

 嬴政は徐の“鍼麻酔”によって身じろぎ一つできなくなっていた。口元の感覚も朧気になっていて、言葉を発することもうまくできない。痛覚も消えているため、体を起こして覗き込めない今の状態で己の首元で何が行われているのかは、彼らの会話と“触られている”という感覚でしか推し量ることができない。
 確かに傷痕と離れた場所を“撫ぜられた”ような感覚はあったが、あれは首を切られていたというのか────

「見たら分かりませんか? 大王様は敵に首を斬られて、太い血管を損傷しています。もちろん、もっと太い血管もあって、そちらが傷ついていたら血の噴水になってもうとっくに亡くなっていますけど。それで、幸運なことに大王様はそういう即死に至るような血管の損傷はありませんでしたが、今みたいに血を垂れ流しになっていたら当然死にます。圧迫止血が奏功していないので、結紮止血、血管を結んで出血を止めなければなりません」
「だから、なんでそれで、新たに首を斬る必要があるんだ!」
「手探りで結紮はできません。血があふれて視野が確保できないので、更に太い血管を一時的に遮断して血流を止めて、血があふれないようにしたんですよ。もう、良いですか? 早くしないと、遮断時間が長くなれば大王様の脳に血が回らなくなって色々とマズい事になるんですけど……」
「な、と、とにかく早くしてくれ!」
「はい、言われずとも。……もう終わりましたよ」

 徐の立て板に水の勢いにいつもは口うるさい侍衛が押されている。もし今、嬴政が体を自由に動かすことができていたら、きっと笑いをこらえきれなかっただろう。

「終わったって、まだ傷口が開いたままじゃないか!」
「それはこれから……。あ、大王様。傷痕の縫合なんですけど、極力目立たなくするのと、歴戦の兵士みたいに敢えて目立たせていくのと、どちらがいいですか?」

 そんな事を選べるのかという純粋な驚きはさておいて、徐は今の嬴政が満足に発語できないことに気づいているのだろうか。
 傷痕って人間の生命力を感じられて良いですよね……などとうっそりと呟くのが聞こえてしまった。

「ぐっ……」
「大王様!?」

 にわかに強まった危機感から、渾身の力で上げた呻き声に侍衛が気づいてくれた。傷痕が残っては困る。政敵に付け入られる隙になりかねないし、妃達にあれこれ心配されるのも面倒なのだ。

殿、縫合なるものは、できる限り目立たぬようにしてくれないか」

 侍衛がしっかりと我が意をくみ取ったことに安堵したのもつかの間。

「そうですか……では、乙女の顔を縫うのと同等に、綺麗に美しく仕上げてみせますね!」

 もう、疲れた────嬴政は何かと気勢を殺いでくる徐に物申すのを諦めて、回復に努めようと静かに目を閉じた。