蕞での戦闘が始まってから二日目の夜を迎えた。
 民兵達は必死に戦い抜いたが、昨夜の“夜襲もどき”のせいで殆どの兵が一睡もできていない状態だった。大王の激励により兵達の士気は未だ高いままだが、体の方が追いつかなくなりつつある。
 今晩こそは、何としてでも兵を休ませる必要があった。

 オオオオオオオオオオオオオ────

 四方から絶え間なく浴びせられるこの喊声が兵を休ませないための策だと分かっても、はいそうですかとお休み三秒をできるのはぐらいだったようだ。昨晩は一人だけ熟睡して救護班の面々から冷ややかな視線を浴びることになった。
 
────こちらにも考えがあると貂に宣言したことは嘘ではなく、救護班では昨晩の経験をもとにある策を用意していた。
 日中の治療の合間を縫って作成した“ソレ”を鍋に詰め込むと、達救護班は手分けして四方の壁へと散開した。


***


「寝られない人は手を挙げてくださーい。眠り薬を用意しましたよー。寝ている人はどうぞそのまま寝ていてくださーい」

 気の抜けるような声が聞こえてきて信は上体を起こした。
 声の大きさはさして大きくない。それでも彼女の声に気が付いたのは、多くの民兵達と同様に信の気も高ぶっていたからなのだろう。
 殆どの兵が手を挙げて薬を求めていた。は兵が寝転ぶ隙間を器用に歩きながら配り始める。


「────信。これ、特製の眠り薬だから飲んでみて」

 は信の姿に気づくとぱっと顔を綻ばせ、重そうな鍋を担いで此方にやってきた。

「あんがとな。だけど俺なんかより民兵を優先してやってくれ。俺らは戦なれしてんだから、こんくらいは大丈夫だ」

 の気遣いを嬉しく思いつつ、信は首を横に振った。民兵の方がよほど疲れているだろうに、飛信隊の仲間だからと優先されるのは忍びない。

「心配しないでいいよ。民兵の分も合わせて十分な数を用意してるから」
「そっか。じゃあ遠慮なく。あんがとな、

 の表情に嘘はなく、信は素直に差し出された丸薬を受け取った。

先生、俺にもくれ」
「オレも欲しい」
「こっちもだ」

 信が受け取ったのを皮切りに飛信隊の面々が次々と声を挙げる。
 あいつらも民兵を優先させてたんだろうな────そう思うと信は改めて飛信隊の仲間が誇らしくなった。
 へへッと思わず笑いが漏れる。肩に入っていた力もいつの間にか抜けていた。

先生、ありがとうございます! いただきますっ!って……うええ苦ぇえええ」
「『良薬苦於口』ですよ。苦い分、よく効きますから」

 そんなやり取りが何度も繰り返されるのをぼんやりと眺めながら、信も手渡された丸薬を口に含んだ。口内に広がった苦味に顔をしかめたが、それからもう一度横になるとあれ程疎ましかった喊声や傷の痛みが、ゆっくりと遠ざかっていくのが確かに分かった。


***


 は、飛信隊の希望者に眠り薬を配り終えると、南壁の民兵達に薬を渡していった。
 民兵達はが眠り薬を配っていることに気づくと、目をギラギラと輝かせやる気に満ち満ちた表情で薬を仰いだ。「大王様の御ために! 全力で休むのだあああ!」といった叫び声がそこここから聞こえてきた。そんなに興奮していてはうまく眠れないのでは──とは心配になったが、極度の疲労が後押しになったのか、みなすとんと眠りに落ちていった。


 の持ち分である南壁の兵達に薬を行きわたらせたところで、休む兵達の中に貂の姿が見えなかったことが気にかかった。
 まさかと思い壁上に上がっていくと、望楼から城内を見下ろす貂の姿が見えた。

「貂……今晩も眠らない気なの?」
「……壁上は危ないって何度も言ってるだろ」

 貂の返答は弱弱しく掠れていた。ひどく疲れているのだろう。

「ねえ、顔のところ怪我してる? 簡単な手当なら今できるから、ちょっと見せてよ」
「いいよ、オレなんか。他の兵士を見てやって」
「うん、他の兵士も見たよ。貂が最後。だから、ほら見せて」

 貂は言い返す気力もないのか、黙って前髪をかき上げた。こめかみの辺りで内出血を起こしている。脳震盪の兆候はなさそうだったので、即席で湿布薬を作って処置を始めた。

「……ごめん。昨日、は忠告してくれたのに、オレのせいで兵を夜通し戦わせてしまった」
「ううん、私の方が考えなしだった。部外者が口を挟んだら混乱するのは分かっていたのに。ごめん」

 貂は驚いたように目を見開いていた。
────仲直り、できるだろうか。貂がどう思っているかは分からないが、にとって貂は大切な友達だ。こんな事で失いたくない。

「それに、もし私が言ったとおりに昨日のうちに兵を休ませようとしていても、うまくはいかなかったと思う。このわざとらしい喊声は城の最奥部まで届いているんだし、休もうと思っても煩くて寝られないよ。一日猶予があったから、兵を休ませる策を準備できたんだ」
「……そういえば伝令が言ってたね。には策があるって」
「はは、そんな大したことじゃないんだよ。眠り薬を大量に用意したってだけ。それではい、これは貂の分。……そうだ、蒙毅くんがね、交代で休憩を取ろうって。時間になったら起こしてくれるって」

 どうも貂が躊躇っているように見えたので、外堀から埋めていくことにした。実際、蒙毅に会った時に伝言を頼まれたことだったので嘘を言っているわけではない。
 頭部の治療を終えてそれ以外に怪我がないか確認を取ると、貂の手に薬の入った包みを押し付けて、返される前にと足早に退散をした。

「ありがとう……」

 背中越しに貂がそう呟いたように聞こえたのは、の気のせいではなかったと思う。


***


「ええ!? ではその医者は、偽の薬を眠り薬と称して配っていたのですか?」
「ああ。面白いことを考えるものだ。すりつぶした穀物に苦味を足しただけのものを、『良薬苦於口』だと嘯いていた」
「必死に戦っておられた兵の方々にそのような偽物を配るだなんて……」
「しかしその“偽物”によって不思議と皆が眠りについたのだ。ぷらせぼというらしい。本物の眠り薬を作ろうすれば薬草が不足してしまうが、思い込みの力というのはうまく使えば本物にも劣らぬ効果を発揮するそうだ」

 目の前で百面相を展開し続ける向のように、あの珍妙な医者の行動は嬴政にも理解しえないところが多く、蕞では随分と振り回された。
 この先の話を聞いたら、向はなんと反応するだろうか────嬴政は悪戯を仕掛ける幼子のような感覚を抱きながら、蕞での戦いのあの四日目の話を始めた。


***


 この日も届きもしない矢をつがえて威嚇しあうだけの生ぬるい戦闘が終わった。
 夜も更けた頃、王賁は楽華隊の野営地を訪れた。王賁にとってそれは“見舞い”というものでは決してなく、ただ楽華隊の戦力を友軍の一隊長として見定めようと思ってのことだった。決して、見舞いなどではない。あれが死んでは楽華隊の兵がしばらく使い物にならないだろう。それでは困るのだ────

「おい、起きているんだろう」
「王賁が来たから起きたんだよ。怪我人なんだから夜はゆっくり寝かせてほしいな」
「昼間もそこで寝転んでいる人間が言うことか。まあいい、当分死にそうにはないな」

 軽口を叩けるくらいだから当面死ぬことはないだろう。それを確認した王賁は立ち上がって天幕の帳を上げた。

「あれ、もう帰っちゃうの? せっかく来たんだからもう少し話そうよ。ね? 賁君。今日の戦況はどうだった」
「何という事はない。戦の要衝は既に蕞に移っている」
「じゃあその蕞はどんな状況? 函谷関には蕞からも兵を集めてたんじゃなかったっけ。あっちにはまともな兵が残っていないんじゃないの?」

 食い気味に問いを重ねてくる蒙恬に、王賁は鼻を鳴らした。この男にしては珍しく必死さを表に出している。

「ああ。しかしまだ陥落の知らせはない。……おい、俺に期待してもこれ以上の情報は持っていないぞ。あそこは既に四方を敵に囲まれているんだ。城内からはまともに伝令も出せんだろう」

 蒙恬はあからさまに落胆の色を見せる。既に聞いていた報せと大差なかったのだろう。

「……あの医者も蕞に入ったらしいな」
「そうらしいね。ちゃんも信達に付いて南道に向かうから、抜糸は蒙武軍の医者にやってもらうようにって、飛信隊から遣いが来たんだ」
「フン、相変わらず命知らずな女だな」
「はは。まあその通りだけど、ちゃんが命知らずじゃなかったら俺は助かってないわけだし? 死にかけてた俺が死んだら命はないぞって、無茶なことをキミや陸仙にさんざん言われたらしいからね」

 やけに根に持つな、と王賁は片眉を上げた。陸仙がどうか知らんが自分は“ただでは置かない”と言っただけだ。

「……随分とあの医者を気に入ったみたいだな」
「ん? ハハハ」

 蒙恬がこうやって笑うのは、それ以上相手に踏み入らせたくないときだ。心の機微が分かっておらぬと彩華にはよく言われるが、蒙恬ほどに付き合いが長ければ王賁でもおよそ見当がつく。

「……結婚は良いぞ」
「何だよいきなり。だいたい結婚って、彩華とはまだ許嫁の仲だろう? なんで王賁がその道の先達みたいな顔してんのさ」
「婚約も結婚も似たようなものだ。お前も、いつまでもふらふらとしていないで決まった相手を見つけたらどうだ」
「うはー、君までじィみたいなこと言わないでくれよ。若いんだし、一人に縛られるのはまだ先でいいなー」
「お前は二十五を過ぎても同じことを言っていそうだがな」
「もう、説教を始めるなら帰った帰った! またね!」

 引き留めてきたのはお前だろうが──王賁は内心で毒づきながら腰を上げた。


***


 王賁の足音が徐々に遠ざかっていく。蒙恬は再び沈黙した天幕の中で、かの少女を脳裏に描きながら独り言ちた。

「……死なないでよ、ちゃん」

 聞きたい事が山ほどある。だからまた顔を見せてほしい。危機的な状況であることは理解していたが、そう願わずにはいられなかった。