「夜襲だーーーーー!!」
「敵がまた攻めてきたぞーーー!」

 太陽が地平線に姿を消し、城内の兵達もようやく各々休息を取り始めた頃だった。
 それを許さないとでも言うように、突然、四方から敵の喊声が轟いた。少し遅れて城内の警鐘がガンガンと鳴り響く。


『良いのですね? 今、我々に下れば貴方を趙の賓客として迎え入れましょう。ですが貴方が彼らのもとに戻り、我らに敵対するのならば、容赦はできません。……ちゃん。命の恩に報いるのはこれきりですよ』

 は李牧から言われた言葉を思い出していた。南道に取り残され、途方に暮れていた時に助けてもらったときのことだ。
 そして幼き日、彼と初めて出会ったときの事が頭に浮かぶ。
 森で死にかけていた大男を拾って、徐のみんなで出来る限りの治療をした。結果として命は助かったが、快復するまで男はひと月ほど徐に滞在することになった。床に伏している間も、の突拍子もない話に呆れることなく耳を傾けてくれたし、動けるようになると色々な道具や施設の整備に快く力を貸してくれた、体の大きな優しい人。いつも穏やかに笑っていた────その男が後に趙の宰相にまで上り詰めるとは……あの時のは思いもしていなかった。

「はぁ……本当に容赦ないな……」

 ぼやきながら再び女性達と共に救護所へと向かう。
 すう、と夜風が首筋を撫でる。
 次にあの人と会うとき、此方は首だけになっているのかもしれない────そんな不安を打ち消すように、は夜間の治療体制について考えを巡らせた。


***


先生、大変なことになりましたね……」
「とにかく油灯を増やしてください。やるべきことは昼間と変わりありません。手分けして当たりましょう!」

 当直として残っていた医師達に慌ただしく合流して、すぐに負傷兵を受け入れる体制を整えた。初日の修羅場をくぐった蕞の女性達はもう手慣れたもので、間を置かず運ばれてくる負傷兵の手当ても滞りなく行われていった。


***


「……すみません、少し南壁の様子を見てきます。重傷者がいれば遠慮なく呼び戻してください」
「壁上はまだ戦闘中ですよ!? 危険ではありませんか」
「戦闘の状況を聞いておきたくて。心配ありません、少し話をしたらすぐに戻りますから」

 医者の一人に後を頼むと、は飛信隊がいる南壁に馬を走らせる。じわじわと、一つの疑念が胸中に広がっていた。
────本当に、戦闘は行われているのか?
 夜襲が始まってから一刻ほど、救護所にはちらほらと矢傷を負った兵がやってくるばかりで、それも日中であれば現場で応急手当をして戦闘に戻っていたであろう程度の怪我だった。

 戦場に近付くことの危険は承知の上で、はこの違和感の正体を確かめずにはいられなかった。


***


「貂!」
!? 何で来たんだ……」

 貂の顔を一目見て、は現場の混乱を悟った。それほどに、貂の顔は焦燥と苦悩の色に満ちていたのだ。

「貂、状況は?」
「それが分からないんだ……」
「え?」
さん、見てください。今宵は新月ですから、暗闇で敵側の状況が殆ど見えないのです」
「蒙毅の言う通りだ。それに敵は夜営の火を消して実際の兵数を分からなくしている。この大喊声ははったりなのかもしれないし、そう思わせて油断したところで攻めてくるのかもしれない。分からない以上、万全の態勢で備えるしかないんだ」

 は蒙毅と河了貂の説明を頭の中で反芻した。確かにそうだ。しかし、これこそが李牧の術中なのではないか────

「ねえ、貂。いったん兵を休ませようよ。いくら士気が高くても、不眠不休ではいずれ限界が来る。どうせ敵からすればどちらでも都合がいいんだから……」

 蕞が総力を挙げて応戦するなら、向こうは矢が届かない場所まで兵を下げて蕞が疲弊するのを待てばいい。野戦と違って、敵が寡兵と分かっても此方が城門を開けてまで攻撃に出ることはできないのだ。反対に蕞が兵を休ませれば、敵はその隙に勝負を仕掛けてくるだろう。それでもこの暗闇の中で城壁まで上がってくるのは簡単なことではない。壁上に最低限の兵士を残しておけば、全ての兵士が戦闘に戻るまでの時間かせぎくらいできるはずだ────

 の説明は耳に入っているのかいないのか、貂は暗闇の先を睨みつけたままの方を見ようともしない。

「貂……」
「それはオレも考えてたよ。だけど相手はあの李牧だ。オレなんかには思いもよらない策で攻めてくるかもしれない。兵を退かせることはできないよ!」
「だけど……」

 には貂が冷静に動けているとは思えなかった。落ち着かせようと震える肩に手を掛けようとしたところで、バシンと乾いた音が鳴った。 
 遅れて、ひりひりとした痛みが右手に広がる。 

! お願いだからもう黙っててくれ!」

 貂の悲鳴にも近い拒絶の声には二の句を告げなくなった。

「徐さん、貴方が救護班を取りまとめてくださっていることには心から感謝をしています。ですが此処からは我々軍師の領分です。どうか、お引き取りを」

 そうするうちに、成り行きを見ているようだった蒙毅がと貂の間に腕を差し入れて、硬い声での方に退去するよう勧告した。
────軍師の領分!? 蕞にいる全員が生きるか死ぬかの総力戦なのに、領分もくそもないだろう!
 そんな反論が喉元まで出掛かった。しかしなぜか振り向かねばならないような、振り向いてその人の話を聞かねばならないような気がして、は貂達に背を向けて揖に重ねた両手の陰からその人を仰ぎ見た。

「……大王様にご挨拶を」
「徐。貂も当然、兵に休息が必要なことは理解している。しかしこの蕞が落ちれば、咸陽も遠からず敵の手に落ちよう。さすれば数百万もの秦人が拠るべき国を失い、列国の奴隷となるだろう。今の我らは、万に一つでも負ける恐れのある策はとれないのだ」
「……分かりました」

 嬴政の抑制された声の低さに、はこれ以上の説得が意味をなさないことを悟った。
 そうとなれば此処にとどまっている暇はない。最低限の礼として組んだ両手を挙げ二、三歩後ろに下がると、すぐに身を翻して高楼を下りた。
────他人から見れば、と貂達が決別したようにも見えただろう。もっとやりようがあったかもしれない。は馬を走らせながら苦く息を吐いた。


***


 その後、が見聞きした情報を基に、救護班は当初の予定どおり交代で休息をとることにした。少なからず反発は出たが、運ばれてくる怪我人が少ないことは全員が実感を伴って認識していたので、落ち着かない様子ながら順番に皆が床についた。

先生は不安じゃないんですか? 寝てる間に敵が攻めてきたら……」
「ふふ。私の数少ない特技の一つが、すぐに寝てすぐに起きられることなんです。交代で必ず何人かは起きて待機しているわけですし、緊急時はすぐに対応できますよ」
先生はそうかもしれませんけど……私達は無理ですよ!」

 お休み三秒が取り柄のにとっては、彼らが抱いている不安がなかなかピンとこなかった。そんなが頼りにならないことを早々に見抜いた医者たちは、我が家に秘伝の眠り薬があるとか、気分が落ち着く香があるとかそれぞれの知恵を持ち寄って、最終的には全員がある程度の休息を取れたのだった。


***


 河了貂は人知れず、己の犯した失態の数々に奥歯が砕けるほどに歯噛みしていた。
 己の失策により不眠不休で戦いに挑む兵士達は、ギリギリのところをなんとか奮起して持ちこたえている。しかし、攻守の要とも言える二人の百人将──竜川と田有を失ってしまった。いつ総崩れになってもおかしくない状態だ。
────完全に己の失策だった。あまつさえオレは、カイネを助けてしまった! カイネは敵の部隊長だというのに!


「ああ、河了貂殿。ここに居られましたか。徐先生からの伝言です」

 河了貂はその名を聞いて身を固くした。きっと忠言を聞かなかった愚かな軍師に対する糾弾の言葉が続くと思ったのだ。
 兵の手前、何とか平静を繕って報告を促す。

「そう……はなんだって?」
「はい。『竜川と田有の治療は私が引き受けた! 絶対に助けるから安心して!』とのことでした」
「え……?」
「はい。それから『もしかしたら敵は今夜も騒いでくるかもしれないけど、私達にも考えがあるから。日暮れまで持ちこたえれば何とかなるよ!』ともおっしゃっておりました」

 河了貂は己の耳を疑った。昨夜、自分はをすげなく追い返したというのに、まだ此方のことを考えてくれるだなんて────

「分かった。ありがとう。ありがとう……」

 突然、涙声で礼を繰り返し始めた河了貂に伝令の兵は困惑していたが、理由を聞かずに立ち去ってくれたのには正直助かった。河了貂自身、ぼろぼろ溢れ出る涙の意味がよく分からなかったのだ。
 とにかく、に会いたかった。