「せんせー! この人が徐という名の医者はどこかってさ! 徐って先生のことだよねー!?」

 急ごしらえの救護所で準備を進めていたは、大声で名を呼ばれて振り返った。
 を呼んだ女性の横に立つのは、随分と身なりの良い青年だ。年のころはや貂と同じくらいだろう。────碌な用じゃなさそうだと不審に思いながら、はひとまず手を止めて青年の方へと向かった。

「貴方が徐さんですか」
「ええ、そうですが……あの、何か御用ですか?」

 が訝しげに尋ねると、青年から流れるような動作で揖礼が捧げられた。

「申し遅れました。蒙恬が弟、毅と申します」
「蒙恬様の……!」

 予想外の名が出てきて、は目を剥いて目の前の青年を凝視した。蒙恬の面影を探して観察してみるが、兄弟と分かるような共通点がなかなか見つからない。

「はは、兄上と僕ってあまり似ていませんよね」
「は、いえ。……失礼しました。蒙毅さんですね。私は徐と申します」

 此方の心の動きをそっくり見透かしたように鷹揚に笑われて、恥ずかしくなったは慌てて深く揖礼を返した。

「徐さんが兄の命を救ってくださったと聞きました。戦闘が始まる前にどうしてもその御礼を伝えておきたくて。誠に、ありがとうございました」
「いえ私はそんな、大層なことをした覚えは……」
「ふふ。聞いた通りのお方ですね。さて、あまり長話をしていると先生に怒られてしまいますので、この辺りで失礼します。この戦が終わりましたら、兄も交えて茶でも飲みましょう」

 いったい何を聞いたんだ──と突っ込みたくとも蒙毅にはそれを許さない隙の無さがある。見た目こそ全く似ていないが、こういうところは確かにあの蒙恬の弟だと思わせられた。
 きっとこれ以上引き留めても無駄だろう。はそれ以上の問答は諦めて、足早に去っていく蒙毅を見送った。


***


 戦闘が始まると、城邑の中央に設けられた救護所さえも戦場のように慌ただしくなった。
 は、この十年でやれるだけの事はやってきたつもりだった。外科手術ができる医者などいなかったから手技は否応にでも上達したし、21世紀の医療技術をこの時代に再現できるように徐の人々と手さぐりで器具や薬の整備を進めてきたのだ。

先生! こっちに来てください!」
「はい、今行きます!」

 重軽傷の判別が付かない患者と明らかな重傷患者がのもとに集められることになっていた。
 しかし救命できるのはほんの一握りに過ぎず、救命困難と見切らなければならないことの方が多い。神経はすり減っていくばかりだが、余裕がなければ弱音を吐くことすらできないのだとは思い知ることになった。

「……この方は“黒”です。そちらに運んでください」
「ま、待ってください。まだ、何かやれることはあるはずです!!」
「呼吸が戻りません。これ以上、彼にできることはありません」
「なら、私が治療を続けます! ついさっきまで、確かに息をして、生きていたんです。今もまだこんなに温かいのに!」

 必死の形相で訴えかけてくる女性の姿に、かつての自分自身が重なった。目の前の命を諦めきれない気持ちは、痛いほどによく分かる。

「……許可できません。今は一人でも多くの手が必要です。貴方も、私についてきてください」

 此方を睨みつけてくる彼女の目から逃げるように立ち上がると、は治療を求める声の方へと足早に向かっていった。


***


 蕞に入ってから初めての夕暮れを迎えた。
 絶え間なく降り注いでいた弓矢は止み、全ての敵兵が後方へと引き上げていった。蕞を、ひいてはこの国を、我らが敵国から守り抜いたのだ────“初陣”を戦い抜いた民兵たちが、そこかしこで歓喜の雄叫びを上げている。

 南壁に上がったは、望楼に河了貂が居るのを見つけ急いで階を駆け上がった。

「貂、お疲れさま! なんとか一日目はしのぎ切ったね」
! どうしたんだ、こんなところまで。一応敵は引いているけど、外郭まで来るなんて危ないぞ」
「うん、だけどこの機に動かせない重症患者が居ないか城壁を回ろうと思って。それと、今の状況って……」

 在庫の配分を考える上でもできれば今後の戦略を聞いておきたかったのだが、城を囲む万の敵兵を見て、言いかけた言葉を飲み込んだ。此処にいる誰も、先の見通しどころか明日をしのげるかすら分からないだろう。

「──貂、この女性は?」

 思考を巡らせていたところに声が聞こえて肩が飛び上がった。慌てて後ろを振り返ると、一人の青年──頭に“美”とつきそうな──がの方を興味深そうに見ていた。
 歳は信と同じくらいか。見るからに上等な甲冑と絹織物に身を包んでいる。そして恐ろしいことに、そうした背格好や立居振舞が、先だって広場で演説をして見せた秦国大王と同じもののように見えた。

「ああ、政。紹介するよ。新しく飛信隊の仲間になっただ。すごく腕のいい医者だから、政も怪我した時はに治してもらうといいよ」
「それは頼もしいな。もしもの時はよろしく頼む」

 やはり目の前の青年が大王なのだと分かって、緊張で全身がこわばった。
 そんなをよそに貂と大王は随分親しげだ。一国の王を呼び捨てにする貂には目を剥いたが、当の大王が全く気にする様子がないのにも驚いた。彼がこの先に成し遂げる覇業を思えばもっと苛烈で冷酷な人物なのかと思っていたが、こうして生身の人間として相対してみると随分と印象が変わる。

────だから油断してしまったのだろう。気づけば素朴な疑問を大王本人にぶつけてしまっていた。

「それでは今回の援軍の中に、大王様専属の医師はいないのですか?」
「ああ。平素は我が国最高峰の医師達がついてくれているが、此度は諸事情あって連れてこられなかった。そなたのような優秀な医師が此処に居合わせたことは、我ら皆にとって稀有の僥倖だ」
「ひぇい」

 大王の顔がぐっと近づいてきて包み込むように両手を握られた時には、思わず声がひっくり返ってしまった。直視したら石にされてしまう──そんな魔力を秘めていそうな目力を真正面からまともに浴びてしまって、偉い人から激励された時の当たり障りのない返答どころか、息の仕方すら忘れてしまったようだった。

ってば、なんでそんな緊張してんだよ。相手は政だぞ?」
「そのように畏まる必要はない。楽にしてくれ」

 “相手が政(大王様)だから“、緊張するんじゃないか──!と危うく声をあげたくなったが、すんでの所で引っ込めた。しかし突っ込みどころを貂が作ってくれたお陰で、も多少は平静を取り戻すことができた。

「それでは、あの。不敬を承知の上で、大王様にお伝えしておきたい事がございまして……」
「ふむ、なんだ?」

 ようやく不整脈が収まったところで、はこれだけは言っておかねばと腹を決め、意を決して切り出した。

「その……頼りにして頂けるのは大変光栄です。ですが大王様といえど、常に最優先で治療ができるわけではありません。そのことは何卒、ご理解いただきたいのです」

 本当に言ってしまった。不敬は承知の上だったが、いざとなると大王の反応が怖くて顔も上げられない。
 しかし顔を上げずとも、気配で自分に向けられた視線が鋭く変化したことは分かった。どうせ大王様が前線に出ることなんてないんだし、わざわざ言う必要などなかったんだ────は早くも己の発言を後悔しはじめた。

「何をたわけたことを!」
「医者ふぜいがなんと無礼な!」

 案の定、大王の近習達が次々に非難の声を上げる。
 大王はそれらを視線で制したが、特にを庇ってのこととは思えなかった。
 それを表すように、周囲が静まると同時に大王は鋭い視線をに向けた。

「俺を助ける気はないということか?」
「違います。大王様を含め、可能な限り多くの命を救うためのことです。その為に、城内の医者には治療によって助かる見込みがあり、かつ重傷の方から順に治療に当たってもらっています。仮に大王様が負傷されたとして、より早急に治療が必要な患者がいれば、その方を優先するということです」

 途中で少しでも間を置くと言葉が続かなくなりそうで、のべつ幕なしに言い立てる。そうして最後まで言い切って、ここまで来たら礼法も何もあるかともはや投げやりに近い心持ちで正面から大王の目を見返した。

「ふっ……そうか。分かった、専属の医師を連れてこられなかったのは此方の落ち度だ。此処では君の方針に従おう」

 大王がほのかに笑みを浮かべる。緊張の糸が切れたはやっとの思いで揖礼を捧げると、望楼の階を転がるように下っていった。


***


 この奇妙な女医との邂逅を、のちに嬴政は妃の一人──向へと笑い話として語っていた。

「趙にいた頃からよくも悪くも普通の者と同じ扱いはしてもらえなかったからな。あの者の物言いは少し新鮮だった」
「ですがあんまりです……! その医者は、大王様は怪我をしても治療しないと言ったのでしょう!?」
「はは、否、それは誤解だったのだ。患者であれば、誰しも区別はしないというあの者の信念らしい。王も奴隷も、同じ患者として扱うそうだ。実際、俺がこの傷を受けときはあの者が助けてくれた」

 そう言って嬴政は首の包帯に触れた。当時のことを思い出し、またふっと笑みが漏れる。あれは、どこまでも奇異な女子だった。

「そうだったのですね……ひぐっ……大王様がご無事で良かったです……うう…」
「心配をかけたな、向。しかし蕞での話はまだまだ続くのだが、その調子で泣いていては干からびてしまうぞ」
「も、申し訳ありません。……今すぐ止めますので、大王様、どうぞ続きを」

 そう言いながらもとめどなく涙があふれ出ていて、向は必死にしゃくりあげて我慢しようとしているが全く治まる気配はない。
 嬴政は妃の目元をそっとぬぐい、震える身体を己の方へ抱き寄せた。

「色々なことがあったのだ……相手は王騎将軍をも斃したあの李牧……初日の夜も……」