秦の始皇帝────春秋・戦国時代を終わらせ中国全土を史上初めて統一し、それまでの王位を廃して“皇帝”を名乗った人物だ。確か戦国七雄の最後の国を滅ぼしたのが紀元前221年だったか。
 統一後の経過はともかく、統一までにどんな過程があったかなんて全く覚えていない。せめて、この合従軍侵攻の顛末だけでも知りたかった。このまま秦が滅亡することはないと分かったのは救いだが、徳川家康の三方ヶ原の戦いみたいに、始皇帝だって壊滅的な被害を受けて敗走したことがあるのかもしれない。中国史オタクだった同期の長話をもっとまともに聞いていれば────そんなどうしようもない後悔が頭の中をぐるぐると渦巻いていた。

「驚きだよな。あのお方が、信のダチだって言うんだぜ」

 衝撃のあまりが絶句していると、気を使ってくれたのか隣にいた尾平が声を掛けてきた。しかし、尾平の発言には落ち着くどころか更に驚かされる。

「信が言ってた友達の“セイ”さんって、あの始皇帝のことだったんですか?」
「シコウテイ? なんだそりゃ、黄帝のことか? やっぱって黄帝の弟子だったのか?」

 尾平に質問を質問で返されて、は自らの失言に気が付いた。
 そうか。始皇帝が皇帝を名乗るまで、“コウテイ”と言えば、あの東洋医学の祖とも言われる黄帝のことだったのか────

「というか、私が黄帝の弟子? なんですかそれ。違いますよ」
「そうなのか? けど、そう思ってるヤツは結構いるぜ?」

 黄帝と言えば周王朝よりはるか以前の、実在したのかすらはっきりしていない人物だった筈だ。

「うわ……皆さん私のこと何だと思ってるんですかね。馬鹿にされて診せてもらえないよりかはマシですけど……」

 全く修正される気がしない過大評価に辟易しながらがため息を吐くと、尾平は何かを思い出したようにの方を見た。

「そういや……信とは仲直りできたか?」
「仲直り? もともと信と喧嘩なんてしてない筈なんですけど……」
「そうか、が怒ってねェってんなら良かった。……ホラ、あんとき……俺も聞こえてたんだよ……信が、にヒデェこと言ったろ? ……止めに入れなくてすまなかった」

 尾平が言っているのは、が信に責め立てられて落馬してしまった時のことだろう。尾平が気に病む必要なんてないのに、貂といい、飛信隊の人達はお人よしがすぎる気がする。
 それから尾平は、後ろめたいことを告白するように、いつになく重い調子でぽつりぽつりと話し始めた。

「信のヤツ、が来てから漂……信と実の兄弟みてェに育ったヤツだけど……その、漂とか王騎将軍とか……死んでった人間の名前を出すことがやけに多くなってさ。これは信に直接聞いたワケじゃねェから憶測だが……多分信は、お前がいたら漂や将軍は助かったんじゃねェかって、何であの時に助けに来てくれなかったんだって、どうしてもそう思っちまうんじゃねェかな」

 指摘されて振り返ってみれば、これまでの信のに対する言動には、尾平の推測を裏付けるような点がいくつもあった。

「あ……私、全然気づかなくて……自分が情けないです」
「いや……俺は、信と似たようなこと考えちまってたからさ。だってお前は、息が止まったヤツを蘇らせることだってできただろ?」

 尾平の言葉に、無意識のうちに眉間に力が入っていた。尾平が俯いていて助かったと思いながら、はこわばっていた顔を意識して元に戻す。

「あれは運良く蘇生できただけで……」
「可能性があるっていうのがすごいんだよ。……俺には、到っていう弟がいたんだけどさ。三年前、趙軍の夜襲を受けて死んじまったんだ。……腹に矢を何本も食らって死ぬような大怪我だったのに、最後はあいつ一人で、信を守り抜いたんだぜ。到は俺の誇りだ。……だけどさ、だけど……どうしても考えちまうんだよ。あの時、俺が代わりに信をおぶって到を休ませてやれてたらとか、到の手当を先にしてたらとか」

 広場を包む熱狂を肌で感じながら、の心は鉛を流し込まれたみたいに重く沈んでいく。

「ワリぃ、結局俺の話になっちまった。……俺が言いたいのはだな、信を庇うつもりなんざねぇんだが、できればあいつのことを許してやってほしいんだ。あいつだってな、麃公将軍のことがなけりゃあ、ずっと胸にしまってられたんだろうぜ。それだけ、麃公将軍の存在が信にとって大きかったんだろうな」
「だから、信と喧嘩なんてしてませんよ……だけど尾平さん、ありがとうございました。最近、信の様子がどこか変だったので心配してたんですけど、私にはどうしていいのか、理由さえ分からなかったので」
「へへっ、それなら良かった。……なんか俺に似合わず辛気臭ェ話になっちまったな」

 それからの尾平はすっかりいつもの調子に戻っていた。漂という少年は大王様とそっくりだったんだとか、孤児だった信とその少年の夢が、天下の大将軍になることだったんだとか、興味深い昔話を色々としてくれていた筈なのだが、あまりの情報量に話の半分も入ってこなかった。


***


 は救護隊の指揮者として、必要な物資の確保を指示しつつ最低限の処置の方法や重症患者の見分け方を教示していた。幸いにも蕞には十数人の医者がいたので、彼らを東西南北の各城壁に対応するように配置し、は最も重篤な患者の治療に当たることにした。


「……これを、こうして……あっ」
「ちょっと! 先生の大事な道具、落としちまってどうすんのさ!」

 悲鳴にも似た叱責の声が聞こえて、は急いで二人の女性の下へと向かった。どうやら年若の少女の方が、消毒を頼んでいた器具を取り落としてしまったようだった。
 は地面に散らばった器具を手早く布巾に載せて拾い上げた。

「先生……! す、すみません……」
「大丈夫ですよ、きちんと洗浄して消毒しなおせばいいんですから。それより、貴方に怪我はありませんか?」
「けっ、けがはないです。すみません、すみません……」

 今にも泣きだしそうな少女はと同じ年ごろだろうか。
 可哀そうなくらいに青ざめ、全身を震わせている。最初はからの叱責を恐れているのかと思っていたが、いくら優しく声を掛けて害意がないことを示しても彼女の震えは収まらない。彼女の感じている恐怖は、そんな小さな事ではないのだろう。

「怖いですよね……きっと、一刻もしないうちにこの城は敵軍に包囲される」

 断続的に感じる地面の揺れが、迫りくる大軍の存在を否応にも突き付けてきている。自身、本能的な恐怖から気を抜けばその場にしゃがみ込んでしまいそうだった。
────医者がかように辛気臭い顔をしとると治るモンも治らんぞォ
 麃公将軍から容赦なく背中を叩かれた気がした。そうだ。私がここで一緒に震えていても仕方がない。

「……だけど、函谷関での戦の顛末は貴方も聞いているでしょう? 秦国軍は列国の大軍を退け、函谷関を死守した」

 は唇の端をひいて、笑みを作った。震えないよう腹に力を入れて声を出す。

「────大丈夫ですよ。私たち飛信隊は強いんです。絶対に、大丈夫」

 この言葉に嘘はない。彼らならやってくれると心の底から信じている。
 しかしだからといって、犠牲の出ない戦いなんてなかったし、彼女達を危険な戦場に留め置くことへの罪悪感が消えるわけではない。敵軍を率いるのはあの李牧なのだ。彼女達があのまま降伏していれば、彼なら意味のない虐殺はしなかっただろう。

「……ごめんなさい、先生。私……大王様の前で誓ったのに、いざ敵が迫ってきたら弱気になっちゃって……」

 幼さを残す丸い瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。は慌てて布巾を取り出すと、痛くならないよう慎重に少女の涙を拭きとった。

「謝ることではないですよ! どうか泣かないで……不安になるのは当然です。……本当にごめんなさい。貴方たちに甘えてばかりで……」

 の言葉に、少女は驚いたように目を瞠る。

「先生が、甘えてるんですか……?」
「はい、皆さんのお陰で私はものすっごく助かってるんです! 此処に来るまでは器具も包帯も薬も、準備を全部私一人でやってたんですよ。それはもう大変で。いつもだったら夜通しやっても全然間に合わないんです。それが皆さんが手伝ってくれたお陰でもう準備が九割がた終わっているなんて! 皆さん、慣れない作業だったはずなのに正確に手早くやってもらえて、何も心配することなくお任せすることができました。だから……」

────だからどうか一緒に戦ってほしいと、この先も助けてほしいと、そう続けて貴重な人材を失わないようにすべきなのに、大王のように士気を鼓舞すべきなのに、思うように言葉にならない。
 つくづく自分が情けなくなって、視線が下を向く。

「……先生。私、逃げる気なんてありませんよ」
「え?」

 思いがけない力強い声音に、ははじかれたように顔を上げた。
 信じられなかった。先ほどまで恐怖に震えていた筈の少女が、今は穏やかな微笑をたたえてを見ている。

「私は……自分の為に戦うんです。今、南道を攻めてきているのは趙国の兵なんですよね。たとえ降伏して命だけ助かったとしても、奴婢に落とされ畜生にも劣る扱いをされるくらいなら、奴らに一矢報いてやりたいと思います。大王様がどうだとか、咸陽の人達がどうなるかだとか、そんなの、私には関係ありません。これは、私の……私達の尊厳を守るための戦いなんです!」

 は返すべき言葉を見失って、ただ茫然と少女を見た。

「この子の言う通りですよ。あたしらは別に、手足縛られて肉の盾にされるって訳でもないんだ。みんな、自分の意志でここに残ってるよ。大王様が仰ってたような、この国がとか遠い先祖がとか、難しくてよく分かんなかったけどさ、自分たちの故郷を好き勝手いいようにされない為に、やれることをやるだけさ」

 少女の隣で、年嵩の女性が肩をすくめて軽やかに笑う。

「すみません……私が皆さんを説得しようだなんて……傲慢でした」
「フフッ……何かあたしは先生の方が心配だなあ。そんなお人よしで。色々と小難しく考えすぎですよ。死にたくないから全力で戦う。死なせたくないから精一杯手当てする。それで良いじゃないですか」

 そう言って女性はまた、からりと笑った。
それから防ぐ間もない素早い動作で、が抱えていた不潔な器具が取り上げられる。

「後はこっちでやっときますよ。あんたももう、大丈夫だろう?」
「もちろん!」

 女性の言葉に、隣の少女は迷いなく首肯して見せた。そうすることで、自らを奮い立たせているようにも思える。しかしこれ以上心配し続けるのはかえって失礼だろう────はそう思いなおして、離れていく二人の背を静かに見送った。


***


 私はこの時の選択を、この先何度も後悔することになった。