ひらりと馬に跨った貂は、信の方をただ事でない目で睨みつけた後、ひどく神妙な顔つきになってを見た。

、救護班のこと、よろしくな。……それと、信なんかのこと、わざわざ“さん付け”する必要ないからな。こんな奴、『バカ』で十分だ」

 が、え?と呆けている間に、貂の姿はもう追いつけないくらい遠くにあった。なんで!? なんで最後に爆弾落としていくの!? と、残されたの動揺は尋常ではない。真顔だっただけに冗談かどうかも判別がつかなかった。
 恐る恐る横に立つ信の表情を窺うと、なぜか此方を見ていた信とばっちり視線が合ってしまった。まずい、何か話さないと────

「えっと……信さん、」
「テンの言う通りだ。……俺が馬鹿だった」
「貂といい、信さんといい、私に何の気を使ってるんですか? 私が信さんを責める理由なんて、何もないですよ」

 責めるような口調にならないように注意を払いながら、声を掛けた。麃公将軍の死を間近で見て、きっと今、誰よりも傷ついているのは目の前の彼なのだ。

「いや……テンに言われて分かったんだ。俺はお前に甘えちまってた。何でもかんでも、お前ならできるって頼っちまって……あげく麃公将軍を助けられなかったこと、お前のせいだって当たっちまって……本当は分かってたのにな。あの時点で、どうやったって……もう助からなかったってことは」

 は驚いて信の方を見た。
 あの時のことなら、謝らないといけないのはむしろの方だ。麃公将軍が助かりようもない状態だったのは高台から見ていたにも分かっていたけれど、仮に助かる見込みがあったとしても、あの戦場の中心地に近づく勇気はにはなかっただろう。きっと、見捨てていた。

「悪かった、」
「まって、信さん……座ってください、ここに。今すぐ」
 
 さらに謝罪を続けようとする信を遮って、手当てのために座るよう促した。
 よく見れば信は傷だらけだし、動きにもぎこちない所があった。これから始まるであろう戦いの大きさを思えば、できるだけ万全の状態で臨んでもらいたい────そう思ったのだ。胸に巣食うこの罪悪感を、少しでも打ち消したいのかもしれない。

……本当に悪かった」
「ちょ、ちょっと、待ってください! 違いますよ、怪我の手当てをしたいだけですから、楽な恰好で座ってくれればいいんです」

 言い方が悪かったのか、いきなり跪こうとする信をは慌てて制止した。

「手当て……してくれんのか……?」

 ぽかんと口を開けて呆けている信が、何だか年相応の少年のようにあどけなく見えて、気づいたら小さな子供を落ち着かせるときのように、さわさわと信の頭を撫でていた。

「もちろんですよ。……さっき、心配してくれている貂の前では言えなかったんですけど……私は信さんから『お前ならできる』って無条件に信頼してもらえていたの、嬉しかったんですよ。重圧に感じるときもありますけど、だからこそ、信頼に応えなきゃって力も湧いてくるんです」

 途中から信のツンツンした髪の感触を楽しむ方向に目的が変わっていたのがバレたのか、顔を赤らめ少し怒った様子の信に手を払われてしまった。
 ははは、とバツの悪さを笑ってごまかして、はそそくさと治療に取り掛かる。

「……あ、そうだ。なので全然、頼ってもらうのはいいんですけど、“アレ”はもう止めてくださいね! 私は信さん達と違って運動は人並みなんですから、馬に乗ってる時に後ろからいきなり引っ張られたら転げ落ちますよ! 今回は奇跡的に受け身が取れましたけど、下手すれば死んでますから!」
「すまねェ……本当に、俺は最低だな……これからは“このクソ野郎”とでも呼んでくれ」

 またその話か、しつこい! と腹が立ったは、ことさら丁寧に薬を塗り込んだ。効果は高いが、めちゃくちゃ沁みる薬だ。

「もう、貂といい、信さんといい! じゃあ“信”でどうですか、命の恩人で自分とこの隊長を呼び捨てですよ! どうです、バカとかクソ野郎とか言わなくても、十分不敬極まりないでしょう!?」
「ククッ……って意外と、怒りっぽいんだな」

 信は笑いを堪え切れなかったように、息を吹き出した。
 意味が分からない。は不満を隠さず、しかめ面で信を見る。

「意外とって何ですか。私のこと、なんだと思ってたんです」
「それは……や、まあ……なんでもねェよ」

 信の歯切れ悪くの問いには答えてくれなかったが、その表情は憑き物が落ちたみたいにこざっぱりしたものになっていた。

「そうですか。ま、信さ……「信、だろ?」信、が元気になったならそれで良いですよ」
「へへっ。……そうだ、俺のダチが此処に来てたんだ。政って言ってな……にも紹介してェな」
「信の友達が? これから戦場になる、此処にですか?」
「ああ。俺らと一緒に、戦うんだってよ」

 信がその友人を心から大切に思っていることが言葉の端々から伝わってきた。嬉しそうに顔を綻ばせる信に釣られて、もいつの間にか笑みがこぼれていた。

「それは心強いですね。……はい、治療は終わりました。ご友人のことは……信も忙しいでしょうし、また今度で十分ですよ。時間が出来た時にでも紹介してください」

 信の友人で、こんな絶望的な状況の中、援軍として来てくれた人だ。どんな人物なのか気にはなったが、今は戦闘の準備を少しでも進めるべきだろう。

「そうだ、これからどちらに? 蕞の人に一通り案内してもらったので、大抵の場所なら分かると思いますけど」

 別れ際に何となしに行き先を尋ねたところ、もともと信は軍議が開かれている本営の方に行こうとしていたという。は記憶を頼りに、それらしき高楼があった場所を説明した。

「そっか、あんがとな。……じゃまたな、。あんま無理すんなよ」
「はい。信も、また後で。“セイさん”に会えるの、楽しみにしてますよ」

 絶望的な状況は変わらないはずなのに、彼の笑顔を見ていると何だか大丈夫な気がしてくるのだから不思議だ。
 コン、と互いの拳を合わせるだけの、あっさりとした別れを済ませる。

 信が背を向けたのと同時に、も思考を巡らせながら歩き始めた。
 救護班の配置。物資の割り振り。そもそも圧倒的に人手が足りないのだ。この蕞の住民は李牧軍が来たら投降するつもりだったらしく、彼らから歓迎されていないのは城門をくぐった時から肌で感じていた。に出来ることとすれば、今いる数少ない正規兵が負傷によって戦線離脱するのを、少しでも食い止めることぐらいかもしれない。咸陽から来た援軍もそれほど多くはなさそうだった。

 援軍と言えば、信が向かった高楼の周辺は物々しい装備の兵達が警護していたけれど、咸陽からよほどの高官が来ているのだろうか────
 実はこの時のの推測がそれほど見当はずれでなかったことは、このすぐ後に、思いもよらない形で明らかになったのである。


***


 李牧率いる大軍が迫る中、蕞の広場に現れた青年は、自らを秦国の大王、嬴政だと名乗った。

「よく聞いてくれ、蕞の住民よ────」

 大王が語り掛ける言葉は、降伏を決めていた蕞の民の心を強く揺り動かした。“祖国”を守る兵となるべく立ち上がった少年、少女、息子、母親、青年、老人……一人ひとりの叫びが、大きなうねりとなって大地を震わせていく。

 しかし異邦人であるは、彼らとは違う衝撃に、心臓が激しく波打つのを感じていた。

「……秦国の王、政……始皇帝?」

 思わず口から漏れた呟きは、“兵士”となった蕞の住民達の喊声によって、運良く掻き消されていた。