蕞の城内に入った兵達は、誰もかれもが俯き、顔も上げられない程に疲れ切っていた。
 それは隊長である信も例外ではなかった。前を向く体力も気力もなく、馬上になければ早々に歩みは止まり、力尽きて地に臥していたかもしれない。

「……せ、政?」

 そして今、疲労と失望によって鈍麻した脳は、信に都合のいい幻を見せていた。

「……あれ? 何で。こんな所に……」

 目の前に、此処にいるはずの無い友の顔がある。
 信にとって無二の友というべき男──秦国大王嬴政は、沈痛な面持ちで傷だらけの信達を見た。そして幾ばくかの沈黙の後、ゆっくりと口を開く。

「────もちろん、お前達と共に戦いに来たのだ」


***


 友の肩を借りたことで、信はようやく麃公将軍の死を嘆くことができた。それから腰を下ろして、水を飲んで、肉を食べて──そうして足に、手に、胸に、いつもの感覚が戻っていった。

 幾分か軽くなった腰を上げて信が城内を歩いていると、貂が物凄い勢いで馬を駆けてきた。

「なあ、信! を見てないか?」

 酷く焦った様子の貂は、周囲に視線を走らせながら馬から降りることもなく信に問いかけてくる。
 信は貂に釣られて周囲を見回し、困惑交じりに首を振った。

か? いや……見てない」
「困ったな。には救護関係の指揮を執ってもらいたいんだけど」
「そんぐらい、ならわざわざ言わなくても、」

 やってくれてるハズだろ、と言いかけて、信はを最後に見た時のことを思い出した。南道の途中で李牧軍と衝突した時のことだ。麃公将軍が斃れ、混乱の中で敗走を初めて以来、の姿を一度も見ていない。

「……テンも見てないのか」
「なあ、信。もしかして、は途中で──」

 最後まで言われなくても、貂が何を心配しているのかは想像がついた。
 敵の追撃によって、従軍できない程の怪我を負ったのではないか。もしかしたら、麃公将軍みたいに────

「クソっ! 俺のせいだ……!!」

 最悪の予感は、嫌になるほど現実味を帯びていた。信は自己嫌悪からギリギリと音の鳴るほどに強く拳を握りしめる。

「“俺のせい”? どういうことだよ、信。何か心当たりでもあるのか?」
「……それは、」

 刺すような視線を向けられて、信は逃げるように顔を俯けた。
 唇を噛みしめる。頭の中は後悔でいっぱいだった。
 酷い言葉を浴びせた上に、武器を持たないを戦場に置き去りにした。しかもに謝罪する機会は、もう永遠にないかもしれないのだ。

『なんで、麃公将軍を助けてくれなかったんだよ! お前ならどんな傷だって治せんだろ!?』
『お前がいたのに! 何で、麃公将軍が死んでんだよ!』
『なんのためにお前がいるんだよ!』

 麃公将軍が龐煖の矛によって地に臥した瞬間、が戦場から真っ先に背を向けるのを見たのだ。怒りなのか失望なのかそれとも他の──信自身にも判別できない感情を、気づけばそのままへとぶつけていた。

「はあ!? 信お前、にそんなこと言ったのかよ!?」
「……つい、うっかり本音が出ちまって」

 決まりの悪さから信の声は尻すぼみになっていた。

「前からちょっと気になってたけどさ、信はに甘えすぎだよ! 他の奴にそんなの言ったことないだろ!? オレには全部しょい込まなくていいって言ってくれたのに。なんでにはできないんだよ……!」

 貂の小さな体のあらゆる場所から、悲鳴にも似た怒りが迸っていた。
 馬から降りた貂によって、信の胸倉がつかみ上げられる。身長差のせいで前に身体を折り曲げるような姿勢になった信は、困惑のまま、貂の手を払うことなく反射的に言葉を返す。
 信には、貂が何にここまで怒っているのかが分からなかった。

「……だってあいつは、俺らとは違うだろ。どんなひでェ怪我でも、すぐに治せてさ。……いつだって冷静で、落ち込んでるとこなんか見たことねェし」
「落ち込んでる姿を見せてないからって、なんで落ち込んでないって言いきれるんだよ! むしろあんなに、数えきれないくらい大変なことがあったのに、信には弱音の一つも言えてないってことだろ。……部下に頼り切って一つも頼りにされてないってことを、隊長として反省しろ!」

 貂は肩で息をするほど声を荒げ、必死で信に訴えかけていた。
 信の脳裏に、徐の壁外で出会ってからのの姿が浮かんでは消えていく。いつだって、は笑顔だった。冷静だった。
────無理をしていたのか、否、させていたのか?


「ちょっと二人とも、こんな時になんで喧嘩してるんですか!?」

 ここで聞こえる筈の無い声に、信は貂と揃って勢いよく振り返った。


***


「二人が私のことで喧嘩してるって、全く意味の分からないことを尾平さんから聞いて、とにかく急いで来たんですけど……これはいったい、どういう状況ですか?」
「「!?」」

 は信と貂が喧嘩していると聞いたから急いで駆け付けたのだ。しかし、目の前の二人は動きも声もぴったり揃っていて、なんだいつも通りの仲良し二人組じゃないかと、気が抜けると同時にここまで全速力で走ってきた疲労に一気に襲われた。
 はあ、と思わず溜め息を吐く。

「どういう状況かって!? そんなのこっちが聞きたいよ! 、これまで何処にいたのさ!?」

 食い気味で質問に質問を被せられて、気を抜いていたは面食らって貂の方を見た。貂がどうして怒っているのか、にはとんと見当がつかなかった。

「えっと……戦闘が始まれば負傷者も多くなるだろうから、救護を担当してくれる人達と色々と準備をしてたんだけど……」
「ずっと姿見せなかったから心配したんだぞ!」

 そうだったのか、とは心の中でつぶやいた。そういえば蕞に入城してからすぐに裏方に回っていたから、いつまでも生存確認ができずに混乱させてしまったのだろう。

「ごめん、まず貂に一声かけておくべきだった」
「とにかくが無事でよかったよ! そこのバカのせいで、が逃げ遅れちゃったんじゃないかと思ってさ……」
「あー……ちょっと、逃げ遅れてはいたんだよね、実際。ははは。もちろん、信さんのせいではないんだけど」

 二人の反応を見て、はまた口を滑らせたと後悔した。
 の言葉を聞くや否や、貂がなぜか髪が逆立ちそうなくらいに怒りだして、その横で信が二回りほど小さくなってしまったのだ。

「じゃあ、どうやって此処までたどり着いたんだ!?」
「えーっと……明らかに戦闘要員じゃないから見逃してくれたのかなー。ははは」

 実際の所は、色々な偶然が重なって奇跡的に生き延びられたといった感覚だ。しかし、ここで貂達に事の仔細を説明するのは躊躇われた。

「はぁ……オレ達に話せないことなら無理しなくていいよ。が無事だったんだから、それでいい」

 とっさに思いついた言い訳は我ながらかなり無理があったから、貂があえて追及をしないでくれたのは有難かった。
 趙国軍の追手から逃げ延びた方法を説明しようとすれば、あの李牧との関係──単に昔、治療をしたことがあるというだけなのだが──についても話すことになる。医者の守秘義務なんて此処には存在しないのだろうが、彼は今や趙の宰相だ。病気や怪我等の情報が、の思わぬところに影響してしまうかもしれない。

「貂も、信さんも……心配掛けてごめんなさい。この通り、五体満足無事なので、これからはバリバリ働きますよ!」
「うん……本当に、が無事でよかった」

 貂の声は少し震えていて、沢山心配をかけてしまったんだなと申し訳なくなった。
 どちらともなく身体を寄せ合って、生きているという事を確かめた。今日の次には明日が来るのだと、無邪気に信じていた頃にはもう戻れないだろう。

「頑張ろうね、貂」
も死ぬなよ。……この戦が終わったら咸陽の都を案内するよ。すごいんだ、本当に。きっと、見たことないものがいっぱいあるよ」
「楽しみだなあ。……それじゃあ絶対に死ねないね」

 ゆっくりと、貂とは名残を惜しむように身体を離した。
 そうして再び騎乗したときの貂は、もう“飛信隊軍師”の顔に戻っていた。