「君は……“どこ”からやってきたの?」
鼓膜をくすぐる囁きにぞわりと肌が粟だった。
けれど、どこか落ち着いている自分もいた。────来るべき時が来たのだと、感慨深くすらあった。
「わたしは────」
は全てを打ち明けてしまおうと口を開いた。
二千年先の未来を生きていた記憶があること、文化文明の差に何度も戸惑ったこと、元の世界に戻るすべはないかと模索したこと、十年という月日は、何かを諦めるには充分であったこと。
「私は、」
緊張で喉の奥が干上がってうまく言葉にならない。
これまで誰にも言ってこなかった、言えなかったことだ。荒唐無稽だと、頭のおかしい人間だと思われるだけだと。
「……ちゃん。笑われるかもしれないけど、俺は……君が未来から来たんじゃないかと思ってるんだ」
氷の手で心臓を掴まれたような感覚に、息が止まった。
咄嗟に距離を取ろうと傷の無い方の肩を押したが、それ以上の力で抱きすくめられて身動ぎ一つとれなくなる。
「君の医術は傑出している。俺はこれでも名家の生まれだから、王都で名医と言われている医者の治療を受けたこともある。だからこそ、君のやっていることがどれだけ異質なのか分かる」
そしてまた、彼は囁くように耳元で話す。
外に聞こえないよう気を使ってくれているのだと分かっていても、には身体が火照るのを抑えられない。頭の奥が、甘く痺れていく。
「……私は、徐という小国の生まれです。土地柄、他国の技術も多く入ってきますから、秦国の方々には物珍しいものもあるのでしょう」
それでも何度も使ってきた言い訳だけは、すべらかに話すことができた。
どうしても怖かった。本当のことを言って、彼に拒絶されてしまうことが。
「君の持つ知識や技術はそんな話で説明できるものではないよ。最初の頃は、それこそ神仙のたぐいかと思ったくらいだ」
「私は神でも仙女でもありません!」
思わず反論の語気が強くなる。
今までにもの医術を神の御業だの仙術だなどと誉めそやされることはあった。しかしはそのように祀り上げられることが心底嫌いだったし、馬鹿らしくすらあった。────こんなに無力で凡庸な神がいるものか!
「そうだね……君は、神仙というには情にもろくて、意地っ張りで、怒りっぽくて」
「なんですか、それ……貶して、るんですか?」
口では強気で言い返すものの、声の震えは隠しきれていなかった。我慢していたのに、最初の一滴が零れ落ちると、その後はとめどなく涙があふれだす。
「泣き虫も追加かな」
密着していた身体が離されて、目尻にたまった涙がそっとぬぐわれる。
顔が熱い。今の自分は、年甲斐もなく少女のように耳まで赤くしているのではないだろうか。
「はは。照れ屋も追加だ」
────私はどうかしているのかもしれない。彼にこんな風に振り回されるのが、心地よいとすら感じているのだから。
は覚悟を決めて、ゆっくりと口を開いた。
***
この時代に生を受けてから初めてした告白だった。はこれまで内に秘めてきたことを、洗いざらいに打ち明けた。
「ありがとう、話してくれて」
否定されなかった。それだけだ。それだけのことが、にとっては大きな衝撃だった。
「今まで誰にも言えなかったんでしょう? ……辛かったね」
に掛けられる蒙恬の声はどこまでも優しくて、甘くて。もはや最後の堰すら決壊して、の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
子どものようにしゃくりあげている内に、さすがに恥ずかしくなってきて。は必死で涙をぬぐい取ると、なるべく明るく聞こえるように声を上げた。
「長話を最後まで聞いてくださってありがとうございました! さすがに、もう戻らなきゃなんで、行きますね」
「また“抜糸”?に来てくれるんだよね? この戦が終わったら、また話をしよう」
そういう言い方は死亡フラグっぽいから止めてほしいな、とはぼんやり思ったが、伝わるわけがないので口には出さなかった。
「はい。それでは失礼します」
「あ、そうだ。最後に君の名前、教えてよ」
「え? 私の名は、姓は徐。最初にお伝えしませんでしたっけ?」
天幕を出ようと腰を浮かせたところで突拍子もないことを問われた。名前なんて最初の頃に名乗っていた筈だし、他の人はともかく蒙恬なら覚えていそうだと思ったのだが。
「それは“今の名前”でしょう? “前”は、なんて呼ばれてたの?」
ニッコリ、と効果音が付きそうな完璧な笑顔に加えて、小首まで傾けて見せるのだからたまらない。
「、……」
これだけは忘れたくないと、折に触れて思い返し、こっそりと口にしていたものだった。
「そっか。“”が名前?」
文字に起こしてしまえば同じ名前なのに、鼓膜を揺らす響きはやはり違うもので。およそ十年ぶりに呼ばれた己の名前に、温かい幸福感がじわりと胸の内に広がり、満ちていった。
「は、はい。では、表の兵の方をいつまでもお待たせしてしまって申し訳ないので、戻りますね!」
「じゃあまたね、“”」
「はい。また、お会いしましょう!」
むずかゆく跳ねる心臓をなだめつつ、名残惜しさを断ち切るように再会を誓って立ち上がった。
天幕を出ると待ちぼうけを食らっていた兵士がすぐさま駆け寄ってきた。
せっかく護送を買って出てくれたのに申し訳ないことをしてしまった。は平身低頭して謝罪すると、急いで治療道具が載せられている荷車の隙間に、身体を押し込めるようにして乗り込んだ。
「では参りますよ」
「はい、よろしくお願いします」
朝焼けに照らされる平原を馬に曳かれた荷車が進んでいく。
自分の首を懸けた治療に、転生後初めての告白。自分で思うよりも随分と疲れていたのだろう、ゴトゴトと荒っぽい揺れに身を預けるうちに、意識は沼に沈んでいくように落ちていった。
***
飛信隊に戻ったは、言葉にできない違和感に首をかしげた。
戦闘はすでに始まっているというのに、怪我人が一人も出ていないのだ。
「お! 、帰ってきてたんだな!」
「はい、蒙恬様の治療は無事に終わりました」
前線まで出ていた信達が戻ってくると、はたちまち兵たちにもみくちゃにされた。
手荒い歓迎から必死で抜け出したの前に、まっさらな笑顔の信が立っていた。
「やっぱな! は何だって治せるんだもんな!」
「そんな訳ないじゃないですか。私にもできる事とできない事があるんですから、くれぐれも怪我には気を付けてくださいよ」
過剰な期待をされては困るとはすぐさま訂正する。
しかし信はどこか上の空で、の声はまともに届いていないようだった。
「あん時も、お前がいたら……」
「あの時……?」
信の顔に一瞬、陰鬱な影がよぎった気がして、はかろうじて拾った言葉を聞き返し、真意を確かめようとした。
「や、なんでもねェ。……それより、麃公将軍に確認してェことがあっから、ちょっと行ってくる」
いつもと違う信の様子に、はどこか見覚えがあった。
────俺さ……お前見てるとな……
確か昨夜の宴の時も、信は何か言いたいことを飲み込んでいるようだった。
「信さん、悩み事があるなら聞きますよ?」
「わりィ! ホント、さっきのは何でもねェんだ!」
はどうしても気になって食い下がったが、最後は拒絶するように背を向けられて、それ以上追及することはできなかった。
***
信が麃公将軍の下から戻ってくるやいなや、事態は目まぐるしく変転していった。
***
────それにしても重い。
は騎馬用の胡服に甲冑を着け、飛信隊の兵達と共に馬を駆っていた。
借り物の甲冑は当然の体には合っていないし、それなりの重量があってじわじわと体力を削られている。貂に言われて急遽借りたのだが、ここまでする必要があったのだろうか、と思わずぼやきたくなる。
「! 極力オレから離れるなよ。いつどこが最前線になるか分からないんだ!」
そんな緊張感のなさを見抜かれたように、先を行く貂から怒声が飛んだ。
ハッとして周囲を見回せば、同じように表情を引き締めなおす兵達がいた。やはり彼らからしても現実味のない事なのだろう。
いや、現実だと思いたくないのだ。
もし麃公将軍の予感が現実になるとしたら、函谷関に集結した数十万の合従軍、そして十五日間に及んだこれまでの死闘が、ただの囮に過ぎなかったということになるのだから。
***
────現実だとは、思いたくなかった。
山林を抜け南道へと出た飛信隊が目にしたのは、黒煙を上げる城邑と、万を超える大軍の背中だった。