俯いたの頭上から、王賁が息を吐く音が聞こえた。
────呆れられたのか。
の胸中にぐるぐると自己嫌悪の嵐が吹き荒れる。
情けない。恥ずかしい。自分が恵まれていることに気づかずに、技術があれば当然認めてもらえると思っていた。徐国の人々や飛信隊の仲間、麃公軍の兵達────“こんな異質な人間が”、なんの偏見もなく受け入れられてきたことの方が奇跡に近かったというのに。
「あ、あの……」
何を言うべきか分からずまごついていると、そのうちに複数の足音が聞こえてきた。形になっていない言葉を引っ込めて物音のした方を見れば、二人の男が松明を片手にまっすぐ此方へと向かってきている。
危害を加えてきそうな気配はないが────いったい何者だろうかとは油断なく男達を観察した。どちらの男もひょろりと薄い体躯をしているが、新兵と言うにはいささか歳が行き過ぎているような気がする。
「おや、これはこれは! 王家の若君ではありませんか!」
男の一人が、王賁の姿を認めると大げさに驚いて見せた。王賁だけに向けられた媚びるような猫撫で声に、は己の心がざらつくのを自覚する。
「蒙恬様のお見舞いにいらしたのですかな? 我々もご様子を見に参ったところですから、よろしければご一緒にいかがでしょう」
「貴殿らは蒙武軍の軍医ではなかったか。治療ならば先刻この者が済ませたが」
王賁の言葉に、男達の顔から見る間に表情が抜け落ちる。
「……その者が?」
それまでのことを居ない者のように扱っていたのに、今度は値踏みするような視線がのつむじからつま先まで這いまわる。はぶしつけな視線にムッとはしたが、彼らの立場を考えれば無理もないことだと努めて表情には出さなかった。
王賁に言われたばかりだ。ここで意地を張っても仕方がないのだから一応礼儀を通そうと胸の前で手を合わせて名を名乗る。
「と申します。王賁さんからご紹介いただいたとおり、私が蒙恬様の治療をいたしました」
「ほお……。胡漸殿が
「我らでは鍼や灸ぐらいしかできませんからなあ。さてもあれ程の深手では、巫女殿のいかなる“妙術”でもお助けするのは難しいでしょうに。貴方も無理難題を押し付けられてお困りでしょう」
話しぶりこそ丁寧ではあったが、言葉の端々から男達がを軽んじ侮っていることが感じ取れた。
しかし此処で売られた喧嘩を買うことに何の意味があるだろう。
は頬が引き攣りそうになるのを押さえて、努めて『何も分かっていないフリ』で言葉を返す。
「お気遣い痛み入ります。ですが、私もお二方と同じ医者に御座いますから、傷つき病んでいる方のために全力を尽くすのは当然のことです」
「医者ですと……?」
「巫女殿。それはいささか冗談が過ぎるのではありませんかな」
二人は医者を称したに強く反応した。もはや体裁を取り繕うことすら忘れて憤怒の表情でを見下ろしている。
これが王賁の言っていたことかとはため息を吐きたくなった。
「その者が貴殿らにできなかった治療をして見せたのは事実だ」
思わぬところ──自分の隣から声が上がって、はとっさに王賁を見た。
「……下らぬ問答にこれ以上付き合う暇はない」
王賁は淡々と告げると、そのまま背を向けて去っていく。
「お、王賁様……!?」
男達は王賁を引き留めようと呼び掛けたが、王賁が発する殺気に似た威圧感にしり込みしたのか、それ以上追いかけることはしなかった。
同時にも、王賁に庇ってくれた礼を言う機会を逸してしまった。
────残されたと男達の間に流れたのは、何とも気まずい沈黙だ。
「ええっと……あの……非常に厚かましいお話とは思うのですが……お二人にお願いがございまして……」
***
「なるほどねー。それで夜中、あの二人と一緒に来たんだ」
明け方になって、は再び蒙恬のもとを訪れていた。
これから飛信隊の陣営まで送ってもらうことになっている。次会うときは抜糸の頃──一週間は先になるだろうか。
「はい。私はこれから飛信隊の方に戻らなければなりませんから、今後の全身管理は楽華隊のどなたかにお願いしなければならないと思っていたので。医者の方に引き受けていただけて助かりました」
「驚いたよ。あの二人にしてみれば、自分たちが出来なかった治療をちゃんにあっさりやられちゃった訳でしょ? 自業自得だけど、自尊心はずたずたにされただろうし、本当によく引き受けてくれたよね」
は軍医達と昨夜に交わした約束を思い出し、決まりの悪さから首筋に手をやった。何と説明しようかと迷っているうちに、膝の上に置いていた右手が蒙恬によって掴まれていた。
「何があったの。本当のこと、教えて?」
脅すような口調でもなく、腕を掴む力もさほど強いものでもないのに、どうしてだか絶対に拒絶できない圧力を感じた。跳ね上がった心臓の音が、もしかしたら掴まれた手首から伝わってしまったかもしれない。
「……そんな大したことではありません。蒙恬様が無事に回復されれば全て彼らの功績に、亡くなった場合は私が全ての責を負う……そう、お約束しただけです」
話せば話すほど増していく不穏な気配に、の声は尻すぼみになっていく。
「何それ? そんな自己犠牲みたいなこと、ちゃんに求めてなかったんだけど」
ぎりり。ぎりり。掴まれた手首が悲鳴を上げていた。
怒っているのかと蒙恬の表情を窺えば、にはどうしてだか、彼が泣くのを堪えているかのように見えた。
「……俺の命にそんな価値はない。ちゃんまで、俺のために命を懸けるようなことしないでよ」
あまりに切ない響きに、はとっさの返事に迷い、舌をもたつかせた。
「その……私は、医者ですから……患者を区別することはありません。これが蒙恬様でなくても、きっと同じことをします」
恐る恐る口に出してから、は後悔した。
骨が軋むくらいに強く掴まれていた手首が開放されたのはいいが、離れていく手と同じように、彼の心まで遠のいていったような気がしたのだ。
そうじゃない。自分が言いたかったのは、そうじゃなくて────
「すみません……今のは建前でした。確かに目の前に患者が居れば、どんな人だって全力で助けます……それでも、」
もはや蒙恬の方を見るのも怖くて、は膝で握った拳を睨みつけながら、ぐずぐずと情けなく言葉をつなげていく。
「やっぱり、飛信隊を離れてまで此処に来たのは……どうしても貴方を助けたかったからだと思います」
はあ、と小さなため息が聞こえてきて、は思わず首を竦ませた。
「……複雑だな。そう思ってくれるのは嬉しいんだけど」
言葉を探すような、ぎこちなさがあった。
がおずおずと蒙恬の方を見れば、困ったように優しく細められた彼の瞳と目が合った。
「私だってむざむざ殺されるつもりはありませんよ。これでも麃公将軍にはかなり重用いただいているので、麃公将軍の陣営まで逃げ帰ることさえできれば、楽華隊や蒙家といえど簡単には手出しできなくなる筈です」
「甘いよ。それだとちゃんが戻るまでに俺が死んだら意味がないでしょう」
は必死になって言い訳を重ねたが、すぐに蒙恬が穴を突いてくる。
「それなら、蒙恬様が絶対に私を殺すなとおっしゃっていたと、私を殺すのは蒙恬様の遺志に反することだと訴えます!」
食って掛かるように言い返すと、彼の大きな瞳が丸く見開かれて、驚いたようにを見た。
「遺言の捏造は重罪だよ?」
「その時、蒙恬様は既に亡くなっているんですから、捏造かどうかなんて証明のしようがないじゃないですか」
反対に本物だと証明することも難しいだろうが、蒙恬のことを心から慕っている楽華隊相手なら、「もしかしたら主を裏切ることになるかも」という迷いを持たせられるだけで時間稼ぎにはなるはずだ。
「ふはっ。……まあでも、ちゃんのそういう図太くて強かなところ、好きだな。フフッ」
少しの沈黙の後に、蒙恬が突然噴き出した。その後もこらえきれないと言うように小刻みに肩を揺らしている。
褒められているのか貶されているのか良くわからない言い方に、は怒っていいのか分からず顔をしかめる。
「そりゃ図太くもなりますよ。こんな人の命が紙切れ一枚より安い世界なんですから。ぼうっと生きていたら命がいくらあっても足りません」
「紙切れより安い?」
────またやってしまった!
度重なる己の失言に、は顔を覆いたくなった。
この時代の紙が非常に高価なものだということを失念していたのだ。
「間違えました! 紙切れ一枚より“軽い”、ですよね! こんな間違いするなんて私もちょっと疲れてるみたいです! ははは!」
必死でごまかそうとすればするほど、言葉が上滑りしているのが自分でも分かった。しかしなぜか蒙恬の方は、この稚拙な説明で納得したのか満足そうに頷いている。
「ちゃん────」
「殿、そろそろ出発いたしませぬと……」
蒙恬が何か言いかけたところで、外に控えていた兵から遠慮がちに声が掛けられた。
そうだ、いい加減ここを発たないと、戦闘が始まってしまうかもしれない────
は我に返って急いで立ち上がろうとした。
「ちょっと待って」
「えっ……わっ……!」
意識を外に向けた瞬間に強く袖を引かれ、は大きくバランスを崩してしまったのだった。
***
気付いた時には蒙恬に覆いかぶさるように倒れこんでいた。
咄嗟に床に手をついて傷に触れることは避けられたが、結果としてが蒙恬を押し倒したかのような構図になっていて、混乱していた頭がさらに混迷を極め、もはやまともな思考などできそうになかった。
「殿、どうかなさいましたか!?」
「……い、いえ! 何でもないですよ、何でも!」
外に控えた兵が今にも入ってきそうな気配がして、はかろうじて残っていた理性で返事した。今の状態を楽華隊の兵に見られたら、蒙恬を襲った不届き者として問答無用で殺されそうな気がする。
「ねえねえ、ちゃん。一つ聞きたいことがあるんだけどさ」
「なんなんですか! とりあえず離れますから、その後にしてくださいよ!」
この至近距離で彼の顔を見るのは心臓に悪い。きっと今の自分は耳まで赤くなっていることだろう。
「いいの? たぶんちゃんにとって、人に聞かれたくない話だと思うんだけど」
そう言って薄く浮かべられた笑みは、にはひどく残酷で、冷徹なものに思えた。
鋭利な刃で首筋を撫で上げられたような怖気が走り、は飛び上がる勢いで蒙恬から距離を取った。
「えっと……ごめん、ちゃんを傷つけるつもりはないんだ」
の反応に蒙恬は困ったように眉尻を下げる。
はどうにも、彼のこういう顔に弱かった。
気づいた時には伸ばされた手を取って、蒙恬が上体を起こすのを手伝っていた。まだ身体を動かせるような状態でないことは分かっているから、蒙恬が当然のように身体を預けてくるのも黙って受け止める。
「ずっと、ちゃんに聞きたかったことがあるんだ」
蒙恬がの耳元に口を寄せ、囁くように問いかけた。
「君は……“どこ”からやってきたの?」