二人を天幕の中に招き入れた頃、ちょうど蒙恬に施した麻酔もある程度の効果を見せ始めていた。

「……では、さっそく始めますね。これからは時間との闘いです。いま傷の痛みを麻痺させている鍼麻酔という方法は、効果の個人差がとても大きいんです。蒙恬様の場合、効き始めるまでにかなり時間を要しましたので、効果が切れるのも早いかもしれません」
殿。その、鍼麻酔なるものの効果が切れると、蒙恬様はどうなるのですか?」
「ご安心ください、それだけで死ぬことはありません。まあ、死ぬほど痛い思いをされるかと思いますが……蒙恬様が我慢してさえくだされば手術は続行できます!」

 今にも泣き出しそうな胡漸を落ち着かせようと、は笑みを浮かべながら力を込めて説明した。だというのに、胡漸はかえって顔を引き攣らせて絶句している。

「お前……人の心はないのか?」

 なぜか王賁からも人ではないものを見るような目を向けられ、心当たりのないは首をかしげるばかりだ。

「はい? あ、王賁さん、そこの端から二番目の器具を取ってください」
ちゃん……俺も今回ばかりは王賁に同意するよ。ちゃんにはもっと人を思いやる心を持ってほしいな……」

 唯一味方と思っていた蒙恬までこの言いようか。サイコパス呼ばわりされる謂れは無い筈だが、しかし今は反論する間も惜しい。
 喉元まで出かかった文句を押し込めて、は王賁から渡されたメスを手に取り、挫滅した組織を切り取っていった。

「胡漸さん、灯りをもう少し近くへ。王賁さん、そこの火箸を取ってください」

 王賁は赤く焼けた火箸を指示通り渡しつつ、訝しげな視線をこちらに向けてきていた。はメスを火箸に持ち替えると、血管を焼きながら手短に説明を加えていく。

「このように、細い血管は焼いて出血を止めます」
「そ、そのような事をして大丈夫なのですか!?」
「大丈夫ですよ、胡漸さん。それから、太い血管は一つ一つ糸で縛って止血します。王賁さん、そこの左端の器具と針を────」

 その後も治療を進めるたびに胡漸は泣きだすわ王賁は突っかかってくるわで非常に面倒くさかった。は二人を助手に指名したことを何度も後悔したが、それでも二人の補助が加わったことでいつもより格段に処置の速度は上がっていた。


「────終わりました」

 最後に傷口を縫合した絹糸を短く切り取り、は手術が終了したことを告げた。
 誰も彼もがぐったりと疲れていた。もいつになく緊張していたようで、集中の糸を緩めると同時に全身が鉛になったかのような疲労が押し寄せてきた。

殿、蒙恬様は助かったということでしょうか?」
「決して楽観はできません。当座の危機は脱しましたが、傷口から感染が広がると最悪の場合、死に至ることもあります。当面は絶対に安静になさってくださいね。まかり間違っても戦場に復帰されることなどないように」
「承知した! 両手足を縛ってでも、蒙恬様には安静にして頂きましょう!」

 胡漸の口から飛び出た不穏な発言に、はパチパチと目を瞬いた。
 温厚な傅役にここまで言わせるとは、よほど普段の行動に信用が置けないということか。

「えっと……そこまで乱暴にされるとかえって危険ですから。ほどほどに、ほどほどにお願いしますね」

 胡漸を刺激しないようにとが言葉を選びながら答えると、誰からともなく笑い声が上がった。

「フッ、部下から信用されていないというのは大変だな」
「はは。違うって。じィが過保護なんだよ」
「日頃の行いのせいだろう。自業自得だ」

 王賁と蒙恬の何気ないやり取りを眺めながら、は自分たちが確かに生きているのだということを噛みしめていた。


***


 平気な顔をしていたがその実、かなり気力・体力を消耗していたのだろう。蒙恬は手術痕の保護や器具の片づけをしている間に眠りに入ったようだった。
 睡眠は体力を回復させるために必要不可欠だ。は王賁と胡漸を伴って、蒙恬を起こさないように慎重に天幕の外へと出た。

「ふー……終わったぁ」

 雲一つない空には、満天の星が輝いていた。
 冷涼な夜の空気を肺いっぱいに吸い込むと、ずっと胸の奥に凝っていたものがいつの間にか消えていたことに気づく。

殿、飛信隊の宿営まで今からお送りすることもできますが……やはり夜間の移動は危険を伴いますし、出立は明朝になさってはいかがでしょう?」
「そうですね、私も仮眠ぐらいは取りたいですし。あの隣の天幕を使わせてもらってもいいですか?」
「勿論です! それでは、私は治療が無事に終わったことを陸仙に伝えて参りますので、失礼いたしまする!」

 胡漸はどこか焦ったように言い終えると、足早に去っていった。
 陸仙に伝えに行くと言っていたが、そもそも陸仙は蒙恬のことを放ってどこに行っていたのだろう────

「……おい」

 そうこうとぼんやり胡漸を見送っていたら、突然後ろから声を掛けられ肩が飛び上がった。
 そうだ、まだこの男──王賁が残っていたのだ。

「……はい、なんでしょう?」

 は気まずい思いで王賁の表情を恐る恐る窺った。
 思えば蒙恬の治療に必死になるあまり、この男には随分と失礼な物言いをしてしまった気がする。

 の顔を見下ろしながらますます深く刻まれていく眉間の皺に、やはり怒っているのだ、と次に続くであろう叱責の言葉に身を固くした。

「……これまでの非礼を詫びたい」
「はい……はい?」

 予想外のことに何を言われたのかとっさに理解することができず、は目を剥いて王賁を見た。

「女の医者などと侮って邪魔をした。すまなかった」

 そう言って王賁は深々と頭を下げる。
 言われた言葉と目の前の王賁の態度がようやく『謝罪されている』という事実と結びつき、はますます驚愕した。謝られている? この男に?

「とんでもない! 私の方こそ、貴方には失礼なことばかり申しました」

 謝罪されていることに気づくやいなや、反射的にの方も頭を下げていた。こんなところにも元日本人の癖が残っているようだ。

「確かに全く、その通りだな」
「え、いやそうなんですけど。今この流れで言います?」

 ここは王賁の方も「いやいや此方も悪かった」と言ってが「いやいや」と返し、「いやいや」「いやいや」の応酬になるのが自然な流れだったのでは? とは胡乱な目を王賁に向けた。

「そういうところだ。お前がこれからも医者としてやっていくつもりなら、売られた喧嘩をそう易々と買うな。飛信隊のようなまともな医者にかかれない連中ならどんな医者でも有難がるのだろうが、貴士族相手には通用しない。女の医者というだけで相手にもされないだろう」
「確かにそうですよね。王賁さんも最初は私のこと、あからさまに馬鹿にされてましたし」

 正論だったが素直に認めるのは悔しくて、は少し厭味ったらしい言い方で同意した。
 確かに、今のの立場では身分の高い人達の治療はできないのかもしれない。
 しかしは、それでいいとも思っていた。
 良い医者を雇える人までが治療する必要なんてない。はむしろ、怪我や病気になっても満足な治療を受けられない人達こそ助けたかった。

「今回にしても、蒙武・騰軍付きの軍医や楽華隊の連中が随分騒いでいたと聞いた。陸仙とかいう副官が押さえ込んでいなければ、お前は蒙恬に指先一つ触れられないまま排除されていただろうな」
「えっ……」

 口の中に苦いものが広がった。
 は、にわかに湧きあがったこの感情が何なのか、すぐには判別できなかった。もやもやと言葉にできない不快感が腹の底にたまっていく。

「俺はお前の腕を認めているが、それはお前の治療を己の目で見たからだ。大抵の者はお前の表層だけを見て、医者とうそぶく碌でもない小娘だと蔑むだろう」
「何なんですか、そんなの……そんなの納得できません……!」

 思わず声が震える。全身の血が逆流し始めたかのように、行き場のない憤りがぐるぐると体内を渦巻いていた。

「楽華隊の人は良いですよ、自称医者の小娘なんて信用できなくて当然です! ですがその医者たちは、いったい何を考えているんですか! 蒙恬様の治療に当たった医者はみな、治療を諦め匙を投げたと聞きました。私がどのような治療を行うか見も聞きもしないで、はなっから否定する資格が彼らにありますか!」

 感情のままに捲し立てるを、王賁は冷ややかな目で見下ろしていた。短く吐き出されたため息の後、幼子に対して噛んで含めるような言葉が続けられる。

「……お前がここでいくら喚いたところで、現実は何一つ変わらん。現状に納得がゆかぬのなら、己の力で変えて見せろ」

 咄嗟に反論しようと口を開いたは、しかし結局何も言えなくなって、ただ強く唇を噛みしめることしかできなかった。