近付いてくる影が篝火に照らされ、次第にその輪郭を露わにしていく。暗闇の中に浮かび上がった顔は、が見たことのない男のものだった。

「おい、そこは楽華隊隊長の天幕だろう。女が何をしている」

 初対面から詰問調で問うてくる男に対し、は思わず頬を引き攣らせた。

「……貴方こそ、楽華隊の方じゃないですよね。どちら様ですか?」

 手術前で神経を尖らせていたこともあって、の返答は自覚なく不遜なものになっていた。
 そのせいか男の眉間に寄っていた皺はさらに深くなり、身の危険を感じさせるほどに鋭い視線を向けてくる。

「……王賁! その方は蒙恬様の治療のためにお呼びした、飛信隊の軍医殿じゃ」
「飛信隊の?」

 不穏な空気を感じ取ったのか、胡漸が場を取りなすようにを紹介してくれた。しかし王賁と呼ばれた男は、飛信隊の軍医と聞くや更に冷ややかな視線をに向けてきていた。

 はまっすぐに男を睨み返す。王賁の態度からは飛信隊に対する軽侮の感情が感じ取れた。大切な仲間を馬鹿にされて黙っていられるほど、も出来た人間ではない。

「お前が治療をすると? その下着同然のふざけた格好でか?」
「王賁! 殿に失礼じゃぞ!」

 王賁は半袖の医療用作業着──が自作したスクラブを見て鼻を鳴らす。そこには明らかにを嘲るような響きがあった。

「動きやすさを優先しているので、これで良いんですよ。それに治療の際は術衣を羽織りますし……すみません、これ以上“時間を無駄に”はできませんので、私はこれで失礼いたします」

 これ以上反論を続けたら話が長くなりそうだと思い、は王賁との話を無理やり終わらせて蒙恬の天幕へと足を向けた。

「おい、待て!」

 不意に後ろから肩を掴まれ、は尻餅をつきそうになった。
────作業着が土埃に汚れてしまえば取り返しがつかない!
 は体を捩って王賁の手を振り払うと、ぐつぐつと煮え返る怒りをぶつけるべく口を開いた。

「ちょっと────」
「……奴は、助かるのか」

 しかし王賁が思いがけない言葉を言ったせいで、喉元までせり上がっていた文句はまるっと全て引っ込んでしまった。
 そして改めて王賁の顔を見てみれば、彼がわざわざここに来た意味が、にもようやく分かった気がした。

「確約はできません。ですが勿論、全力を尽くします」
「……貴様が奴を害するようなことがあれば、ただでは置かん」

 脅すように声に込められた圧が増したが、既に陸仙から散々脅されているからすれば、今更怖がるようなことでもなかった。失敗を咎められて殺されるとしても、命は一つ限りなのだからを殺せるのも先着一名までだ。

「それほど蒙恬様の事が心配なのでしたら、貴方も治療に加わりませんか? 助手がいれば私も助かりますし」
「何? 」

 王賁の態度は、蒙恬への心配からくるものなのだろうとは解釈した。
 患者の家族や友人が、動揺して医者にきつく当たってしまうのはよくあることだ。まして大切な人の命を預ける相手が経験の少なそうな若い医者であれば、なおさら不安は高まるだろう。

「手伝っていただけるなら、術衣を貸すので上から羽織ってください。もちろん、その汚い甲冑は脱いでくださいよ。それから手はこれでもかと洗ってください。ご自分のことを汚物の塊だと思ってしっかりお願いしますね。それができたら、蒙恬様のいる天幕に入っても構いませんよ」

 王賁に反論する間を与えないように早口でまくし立てる。
 が最後まで言い切った後、王賁は百面相になってせわしく表情を変えていった。怒り、戸惑い、期待、不安────には彼が何を思っているのか正確には分からなかったが、ともかく煩かった王賁が黙り込んだのをいい事に、は滅菌の終わった術衣を羽織ると手早く手術道具をまとめ、天幕の中へと入ったのだった。


***


 蒙恬の傍へと寄っていくと、彼の目はをからかうように弧を描いていた。

「やーちゃんもあんなふうに怒ることあるんだねー」
「あー……そんなに怒ってましたか」

 聞かれていたのか、とはがっくり肩を落とす。
 分かっていても改めて指摘されると落ち込むものだ。

「うん、新鮮だった。あの王賁が動揺してるのも面白かったし」
「あの方とはどういったご関係なんですか?」
「んー……改めて聞かれると何て言ったら分からないけど……腐れ縁ってやつかな。痛っ……」

 は会話を続けながら患部に刺激を与えていき、蒙恬の反応を観察した。蒙恬の顔がわずかに歪むのを見て手を止める。まだ麻酔が完全ではないようだ。

「腐れ縁……」
「王賁は王氏っていうとんでもない名家の嫡男なんだけどさ。まー単に付き合いが長いっていうのもあるけど、あいつと一緒にいると何かと気が楽なんだよね」

「俺の生まれを羨ましいって言わない奴はそれほど多くないから」と蒙恬はけろりとした顔で話す。
 望むものを何不自由なく手に入れられる名家の嫡男で、智勇兼ね備えた若き将で部下から慕われる人望もあり────外から見れば何一つ瑕疵のない人生に見えても、人には見せない悩みがあるのかもしれない。
 改めて、は蒙恬のことを何も知らないのだと思い知る。この人は、いったい何に喜び、悲しみ、憤るのだろう。

「蒙恬様は……もしどんな願いでも叶うとしたら、何を望まれますか?」
「んー……? ……“世界平和”かなー。だって俺は文官になりたいのに、この戦争ばっかの世の中が終わらない限り、親父殿が許してくれないだろうからさ。才能があり過ぎるっていうのも困りものだよねー」

 蒙恬はそう言って、夏の空を思わせる眩しく曇りのない笑顔を見せた。途方もない夢に思えたが、いつもの冗談ではないのだと直感的に感じ取れた。

「で、ちゃんはどうなの?」
「え。私ですか?」

 文官になりたいのか、とが蒙恬の言葉を反芻している間に唐突に自分のことを聞かれて、一瞬頭の中の回路が混線した。

ちゃんは、何でも願いが叶うとしたらどうする? 人に聞いておいて自分が答えないのはひきょーだよ」

 そう言われてしまっては答えないわけにもいかない。しかし自分から聞いておいてどうかと思うが、なんとも曖昧で答えにくい質問だ。
 蒙恬はよく即座に答えられたなと感心しつつ、は何もない天井を見上げながら考えを巡らせた。
────ふと懐かしい、潮の香りが鼻をかすめた気がした。

「そうですね……叶うなら……海を見に行きたいです」
「海?」

 蒙恬には予想外の答えだったようで、呆けた顔がに向けられる。
 言葉にしてみればそれが呼び水となって、の脳裏に故郷の映像が鮮やかに蘇っていく。抜けるような青空、きらきらと輝くコバルトブルーの水面みなも、アスファルトにゆらめく陽炎かげろう、真っ黒に焼けた島の人たちの笑顔、優しく耳をくすぐる波の音────白衣をはためかせながらの名を呼ぶ、祖父の姿を思い出して────鼻の奥が、ツンと痛んだ。

「……私の故郷は、海がとても身近なところだったので」
「あれ? ちゃんの故郷って────」

 蒙恬の反応に、はそれが失言だった事に気が付いた。
 蒙恬に徐国の詳細まで話してはいないはずだが、それでも“東金城への出征の道中に”飛信隊が立ち寄ってくれたことでたち徐国の人々は救われたのだと説明した覚えがある。
 “内陸国である秦に海は存在しない。その秦国からさらに内陸部へと東進していく東金城への道中に、海などあるわけがない”
 他の者ならともかく、蒙恬はこの矛盾にまず間違いなく気付く筈だ。

 なんと言ってごまかそうかと思案していると、外に複数の気配が近づいてきていた。
 蒙恬もそれに気づいたようで、此方を探るような視線が外される。

「あ! もしかしたら王賁さん達かもしれませんね!」

 追及の目から逃げるように、はわざとらしく声を上げて立ち上がった。

 幕を上げるとそこにはやはり、仏頂面をした王賁と、今にも泣きだしそうな胡漸が立っていた。

「お前の言う通りにした。さっさと入れろ」
殿! 私も蒙恬様のためにできることがあるなら、何なりとお申し付け下され!」

 地獄に仏。渡りに船! 二人の登場はにとって最高のタイミングだった。王賁の横柄な態度も今となっては気にならず、は満面の笑みで二人を迎え入れたのだった。