心拍が止まったことを告げる無機質な電子音が響く。
 血の臭い、消毒液の臭い、慌ただしく行きかう医師や看護師────


先生!』

 看護師が咎めるようにの名を呼んだ。
 の胸骨圧迫の動きに合わせて、心電図の波形が揺れている。
 息を切らしながら、それでもは、目の前の患者の心拍が戻るまでやり続けるつもりでいた。

『……もうやめろ』
『待ってください! まだやれることがある筈です!』
『蘇生処置を初めて何分経った? お前も分かってんだろうが。“次”が来てんだよ、さっさと切り替えろ!』

 救急車のサイレンが近づいてきていた。消防からのコールもけたたましく鳴り響いている。
 が手を止めた時が、──の死亡時刻になった。明るい色の長髪がベッドの上に散らばっている。彼の瞳が、再び光を宿すことはもうないのだ。
────切り替えないと。すぐに次の患者が来るのだから。
 吸って。吐いて。吸って。吸って。吸って。深呼吸すらままならず、息の仕方を忘れてしまったみたいに胸が苦しい。
 何度も見てきたはずの“死”に、は情けないくらいに動揺していた。

 ふと空気が揺れる。目の前の──の遺体が僅かに動いた気がした。 

、ちゃん……?」

 目の前で起きた“黄泉がえり”には瞠目した。
 今しがた、彼は確かに亡くなったはずなのに────

「も、蒙恬様ァ!! 意識が、意識が戻られたのですね!!!」

 背後から聞こえた胡漸の叫び声に、ははじかれたように瞬きを繰り返した。胸の内で、心臓が全力疾走した後のように暴れている。
 そして改めて“天幕”の中を──そうだ、ここはERじゃない──見渡して、はようやく、自分が“幻”を見ていたことに気が付いた。徐々に頭に血が巡り、冷静さを取り戻していく。

「胡漸さん、待ってください! 今の状態で蒙恬様に近付いてはいけません。きちんと身体を清潔にしてからにしましょう」

 は、蒙恬の傍に駆け寄ろうとする胡漸を慌てて呼び止めた。抗生物質が用意できない状況で、不潔な状態のまま怪我人に近付くのは極力避けたかった。

「蒙恬様、用意ができ次第また戻ってまいります。……胡漸さん、火を焚いて湯を沸かしておいてください。それから天幕の中にもっと明かりが欲しいので、油燈をありったけ集めていただけますか。私の荷車が到着したらこの天幕の脇に着けてください。中に火鉢がありますから炭を入れて、火箸をよく熱しておいてください。ああ、それと────」
「承知した。殿のためにすぐ横の天幕を空けておりますので、ご自由にお使い下され」
「助かります」

 胡漸はさすが楽華隊の副官を務めているだけあって、矢継ぎ早に伝えた大量の指示もすぐに理解してくれた。は手短に礼を述べると、隣に用意された天幕へと移った。


「ああ……やらかした……何やってんだ私は……」

 天幕で一人になった瞬間、は頭を抱えてうめいた。
 あの時、は蒙恬を前に前世での記憶と混同して冷静さを失っていた。どうしてあそこまで動揺してしまったのか、自身にも分からなかった。

────駄目だ。うだうだ悩むのは後にしよう。
 は深く息を吐き出すとともに雑念を頭から追い出した。
 準備が整い次第、さっそく蒙恬の治療に取り掛からなければならない。意識が戻ったのは良い兆候だが、顔色は酷く、身をわずかによじっただけで包帯に血が滲んでいた。このまま血を失い続ければ命の危険があるし、傷口からの感染も心配だった。

 は水で濡らした手拭いで全身を手早く拭き上げると、用意してきた清潔な作業着に袖を通した。
 頭の中で治療手順を反芻しながら、幕を上げて外に出る。夜の外気が半袖の腕を粟立たせた。
 蒙恬の天幕のすぐ横にの荷車が寄せられていた。覆いを取って一通りの器具を持ち出すと、火にかけられた鍋の中に入れて煮沸を始めた。手術着、頭巾、口あて等は特製の蒸籠せいろうを使って蒸気滅菌する。


***


 が準備を始めたのに気付いて胡漸が傍らにやってきた。胡漸は熱湯の中に沈めた鉗子や鑷子を覗き込み、蒸籠から吐き出される蒸気を見上げては興味深そうにほう、とため息を漏らす。

「胡漸さん。恐縮ですが手を洗うのを手伝っていただけませんか。……はい、そうです。そこのたらいの水で」

 は胡漸に水を掛けてもらいながら、石鹸で肘まで念入りに洗っていった。しかしただ手を洗っているだけだというのに、何やら強い視線を感じて落ち着かない。

「おお……それが蒙恬様が作られていた“石鹸”ですな!」
「蒙恬様が?」
「ええ。列国が侵攻してくる前の事ですが、殿から聞かれたお話を基に作っておいででした。ですがそのように綺麗には固まらず、悪戦苦闘されておりましたな」

 は胡漸の言葉に目をしばたいた。東金城での酒宴の折、確かに石鹸の作り方を事細かく教えたことは覚えている。しかし肝心の分量は大まかにしか言っていなかったのだから、再現するのはかなり骨の折れる作業だったはずだ。まして彼からしたら聞きなれない単語ばかりだったろうに、それを聞き流すことなく記憶していたとは────

「意外です。あんな酒の入った場での話に、そこまで熱を入れられるだなんて」
「ええ、まあ。その……石鹸を贈れば女の子達に喜ばれそうだからと……」

 胡漸はそこまで言ってから、少し気まずそうに語尾を濁らせた。

「ああ、……なるほど。フフ」

 胡漸が女の子“達”と、複数形で表した意味を察して思わず笑いが漏れる。確かに蒙恬のあの整った顔立ちと、物腰の柔らかさ、加えて剣の腕も立つというのだから、さぞかしモテることだろう。

 話している間にちょうど手洗いも終わった。石鹸の泡を流してもらったは、火と酒で消毒した鍼を盆にのせ、蒙恬のいる天幕の中に入る。

「あ、ちゃん……」

 の気配に気づいたのか、蒙恬が上体を起こそうと身をよじっていた。

「蒙恬様。無理をなさらず、どうかそのままで」
「フフ……ちゃんの匂いがするなあ」

 いきなり何を言い出すんだ、とは渋い顔になった。
 それに気づいているのか気づいていないのか、蒙恬はいつもの調子で話し続ける。
 
「お酒の匂い……なんか安心するんだよね……」
「それだと蒙恬様も私も、とんでもない大酒飲みみたいじゃないですか。はあ……どう見ても重傷なんですから、無駄話はお控えください」

 暢気なものだ、とはおざなりに返す。さっさと蒙恬の着物を脱がしていくと、傷の状態を見るために胸部へと顔を近付けた。

「うはー……これはけっこう恥ずかしいなあ」
「何を今更。“女の子達”に散々披露されているご自慢のお体ではないのですか?」

 蒙恬の冗談交じりの抵抗をピシャリと跳ね除けると、は慎重に蒙恬の体を動かし、背中側と頭部に損傷はないか確認した。
 見たところ、やはり胸部割創の処置が最優先になりそうだった。
 右肩から左腹部にかけて斜めに傷が走っている。切り口は比較的綺麗だが、かなり強い力が掛けられたのか、傷は肋骨まで達しているようだ。

「何々、ちゃん。妬いてくれてるの?」
「呼吸は苦しくないですか。胸の痛みは────」

 煩わしく思う程に、彼の調子はいつも通り軽薄この上ない。この傷でここまで意識が鮮明なのも驚きだ。は蒙恬の軽口には取り合わず、手早く問診をしていった。

「幸い、臓器の損傷はごく軽いものです。大動脈も傷ついていない。気胸もないようですし……それにしても、戦地で負った傷にしてはずいぶんと綺麗ですね」
「傷の洗い方、ちゃんが教えてくれたから……」

 全く、羨ましいほどの記憶力だ。
 そういえば最初に蒙恬の天幕に入った時、わずかに酒の臭いが漂っていた。────パチリ、パチリと頭の中でピースがはまる。最初にが蒙恬が死んでいると勘違いしてしまったのは、もしかしてこのアルコールと血の臭いが、前世の記憶を強く喚起したからなのだろうか。

「……そうでしたね。ですが酒なら何にでも使えるというわけではありませんから、今度しらふの時にきちんと使用法をご説明いたします」
「そんなまどろっこしい事しなくても……ちゃんが楽華隊に入ってくれたら万事解決なんだけどなあ……」
「私でなくても、蒙家の力があれば腕のいい医者をいくらでも引っ張ってこられるでしょうに」
ちゃんがいいんだよー」

 幼い子どもが駄々をこねるような物言いには眉を顰める。自らの魅力を知った上での、計算ずくの言動に違いないのだ。

「はあ……取り敢えず、痛みを麻痺させるためにいくつか鍼を打ちました。効き始めたら治療を始めましょう」
「え、気づかなかったんだけど……いつの間に」
「今、話をしていた間です。それでは他の準備もありますので、失礼します」

 そう言っては蒙恬が引き留める間を与えずに天幕を出た。
 外に出ると、不安そうに周囲を徘徊する胡漸が目に入る。

「胡漸さん、全ての治療を終えるまでまだ時を要します。少しお休みになられては?」

 は労わるように声を掛けた。胡漸の顔には疲労が色濃く浮かんでいる。これでは彼まで倒れてしまいそうだ。

「いやいや。蒙恬様のお元気になられた姿を見ねば、私も気が休まりませぬ」
「……そうですか。では、せめて床几にでもお掛けになってください。今、貴方にまで倒れられては、さすがに私も対応しきれませんよ?」

 が冗談っぽく言うと、少しだけ、胡漸の纏う空気が和らいだ気がした。

「それにしても……鈴殿の扱われる道具は珍しいものばかりでございますな。これは、竹を編んでおられるのですか?」

 そう言って胡漸は熱気を吐く蒸籠せいろうに手を伸ばす。

「あ、胡漸さん。熱いので触らないでくださいね。ふふ、どうしても欲しかったので頑張って作ってみました。こしきと違って軽いから何かと便利なんですよ」
「いやはや……見事なものですな。して殿はどうやって、それ程の知識を身に着けられたのでしょう」

 す、と胡漸の目が細められた。は苦く笑う。隙あらば此方の素性を探ってこようとするのだから油断ならない。

「まあ、私は秦国の出ではありませんから、目新しいものもあるのでしょう。……そういえば、陸仙さんはどちらに行かれたんですか?」
「ああ。陸仙は……」

 これ以上探られたらボロが出そうだと思い、はやや強引に話を変えた。
 とはいえ陸仙の所在が気になっていたのも本当だ。てっきりが変な真似をしないようにと監視でもするのかと思っていたが、この宿営についてから彼の姿を一度も見ていない。不思議に思ったが尋ねると、胡漸はなぜか言葉を詰まらせた。
 思えば陸仙だけでなく周囲には人影がほとんどなかった。護衛らしき兵が最低限立っているくらいだ。
 周囲を見回していたがあることに気づく。

「あ。噂をすれば、ですね。陸仙さんが戻ってこられたようです」
「む? いやあれは────」

 まさしく噂をすれば影、と言ったところか。
 暗闇の中、迷いなく此方に近付いてくる影があった。