信達も友軍であることに気が付いたのか、武器を収め、臨戦態勢を解いていく。
 しかし胡漸達の様子を見れば尋常でない事態だということは明らかで、喉の奥につかえが入ったような息苦しさは変わらなかった。

「あんたら、蒙恬とこの奴らじゃねェか。いきなり来て何のようだ?」

 信が前に出たところで、胡漸が馬上から降りて拱手する。間を置かず後ろに控えていた騎兵達も同様の礼を取った。

「すまぬ。火急であった故、先触れを出せなんだ。殿に折り入って頼みがあるのだが、いずこに居られるか」

 そう言って、胡漸は自分たちを取り囲む飛信隊の面々を見回した。
 胡漸からはの姿が見えていないようだった。
 の周りは竜川や田有といった巨躯を誇る男たちで固められていた。過保護だ……とは思うものの、に戦うすべが全くないことは確かなのだから甘んじて受け入れるほかない。竜川達の影から、信と胡漸のやり取りを覗き見る。

に何の用だ?」
「それは……」

 信から率直に問われた胡漸が迷ったように後ろの年若い男を見やると、その男──確かもう一人の副長で陸仙という名だった──は胡漸の言葉を引き取り、よく通る声で信に願い出た。

「悪いがここじゃ言えない。説明するから隊長サンだけ来てくれないか」
「そりゃ構わねェが……。なあ、お前らだけ来て、隊長の蒙恬はどうしたんだ?」

 信が怪訝な表情で陸仙達に問いかけると、胡漸や後ろの兵達の顔が明らかに強張ったのが見て取れた。

「……とにかく着いて来てくれ。説明する」

 低い声で陸仙が言うと、信は険しい表情で陸仙達と酒宴の場を離れていった。


***

「……、来てくれ」

 しばらくして信だけが此方に戻ってきた。
 を呼ぶその重苦しい声が、陸仙達がやってきた意味を物語っている気がした。

「信さん。もしかして、蒙恬様が……?」
「ああ……」

 信が固い表情で頷くのを見て、は冷たい冬の海に突き落とされたような心地がした。全身がじんじんと痺れ、うまく息ができない。
 思い知ったはずだったのに、分かっていなかった。ここは戦場で、昨日まで生きていた人が今日も生きているという保証など、どこにもないというのに────

 逸る鼓動に釣られるように、は駆け足になって陸仙達のもとへと向かった。

「あ、あの女子おなごだ」
「あれが蒙恬様が仰っていた……」

 の姿を見て、男達の顔に喜色が浮かぶのが分かった。
 胡漸が涙に濡れた顔での前に立つ。

「おお、殿。信殿から聞かれたか。実は蒙恬様が今日の戦闘で……」
「はい。それで傷の部位、程度は」

 傷を負わせた武器の種類は。傷を負ったのはいつ頃か。どのような処置を行ったのか。今どのような状態か────
 は儀礼的なやり取りを取っ払い、捲し立てるように問いただした。そして胡漸が語った蒙恬の状態は、想像していた通りかなり悪いものだった。

「ここから隣の戦場まで、どのくらいかかりますか?」
「我らがここまで馬を走らせて来るのに……」

 胡漸の口からでた言葉を聞いてはやっぱり、と苦い息を漏らした。
 
「……申し訳ありません。蒙恬様の治療に私が行く事はできません」
「な、なぜじゃ!?」
「こちらにも重傷者が多数おります。当座の治療は済み、今のところ落ち着いてはいますが、いつ急変しないとも限りません。そうなってから急ぎ戻ったとしても、隣の戦場からでは間に合わないかもしれません。そしてお聞きした蒙恬様の状態では……治療しても助からない可能性が高い。一か八かのために彼らを危険に晒すわけにはいかないのです」

 酷いことを言っている、と自分でも思った。
 彼らは一縷の望みを賭けて此処まで来たのだろうに、どうせ助からないとただ残酷な宣告だけして追い返そうとしているのだ。

。なあ、
「信さん、何ですか」

 隣に立っていた信が、の名を呼ぶ。労わるように優しい声だ。
 しかし自分自身への苛立ちを信にぶつけないよう意識するあまり、の返事はひどくそっけないものになる。

「……お前はどうしたいんだ」
「それは……」

 は視線を落として表情を隠した。────きっと今の自分は、すごく情けない顔をしている。
 できるなら誰一人切り捨てることなく全員を助けたい。しかしそのような甘い考えでは結局全員を危険に晒すことになるだけなのだと、ヘリに乗っていた頃から何度も指摘されてきた。

「大丈夫だ。一度、に助けてもらったんだ。あいつらなら、きっと何がなんでも死なねぇさ。お前が思ってるより、俺達はめちゃくちゃしぶといんだぜ」

 力強い手で肩を掴まれ、は信の顔を見上げた。
 迷いのないまっすぐな眼差しに射抜かれる。虚しさ、悲しさ、悔しさ、怒り、罪悪感……それまでぐちゃぐちゃに絡み合ってを捕えていた感情があっという間に吹き飛び、胸のうちが丸裸になって曝け出された。

「……助けたい。少しでも可能性があるなら……やれることは全部やりたい」

 恐る恐る口に出してみれば、それはピッタリと胸の穴に収まって、やはり自分の心からの願いだったのだと思い知る。

「よし、決まりだな! 蒙恬は俺の大事な仲間なんだ。頼んだぜ」

 信の言葉に、は迷いなく頷いた。
 改めて、胡漸や陸仙達に向き直り、膝をつき拝手する。

「一刻を争う事態にもかかわらず時間を取ってしまい申し訳ございません。どうか私に、蒙恬様の治療をさせてください」
「感謝する。……俺の馬に乗れ。急ぐぞ」

 陸仙は平坦な声で礼を述べると、性急にに近付き腕をつかんだ。そして軽々との体を持ち上げて自らの馬に跨らせる。

「まずは麃公将軍の本陣に向かってください! 治療道具はあちらに置いてありますので」
「りょーかい」

 陸仙の声は相変わらず淡々としていた。
 彼はの後ろから手綱を取ると、部下達を先導して麃公軍の本陣へと馬を走らせた。


***


 月明りはあるものの、山中の悪路を照らすには心もとない。
 であれば恐怖で身がすくみそうになる闇の中を、陸仙達は迷いなく馬を駆り走っていった。

「付いてきておいてなんですが、どうして私が呼ばれたのでしょう。騰将軍や蒙武将軍の軍にも医者はいらっしゃるのでは?」
「まあな。だけど匙を投げられた。後は蒙恬様の生命力に賭けるしかありませんとかなんとか、適当なこと言ってな」

 の方から陸仙の表情は見えないが、声には強い怒りが滲んでいた。

「……それから、若がアンタの名を呼んでたんだ」
「え、蒙恬様が?」
「ああ。約束したんだろ? 怪我したら治すって。あの人は無駄に記憶力が良いからな。適当な事言うとしっかり言質取られて後悔するぜ。……まあ、もう遅いか」

 そういえば彼は『予約したから』と言っていた。
 話の流れで冗談ぽく言っていただけに、は約束したことすら忘れかけていた。

「後悔なんてしませんよ。元より、傷ついた人がいれば、どんな人でもそれを治すのが医者の役目です」
「いいのか?……アンタが若を殺したら、俺もアンタを殺すぞ」

 とっさにその意味を飲み込むことができず、は「え?」と声を漏らした。
 冗談でも脅しでもないような、抑揚のなさがかえって恐ろしかった。馬上のために振り返って表情を確認することもできない。

「それに胡漸副官は……あの人は蒙恬様が死んだら後を追うってさ。腕の悪い医者を連れてきた責は自分の命で贖うんだと」
「大切な傅役もりやくの方に殉死させるだなんて、蒙恬様は望まないのでは?」
「ハハッ。……ああ、蒙恬様はそういう人だよ。だけど事はそう単純じゃないんだ。蒙家は秦国有数の名家だ。身代が大きい分、一枚岩とはいかない。嫡男をむざむざ死なせたとあれば、その傅役を糾弾する奴らが腐るほど湧いてくるさ」

 陸仙はそう言って自嘲めいた笑い方をした。
 蒙恬を助けられなければを殺すというのも、きっと本気で言っている。しかしそれはこの陸仙という人の本質の、ほんの一角でしかない気がした。

「すみません。貴方にそんな、“汚れ役”をさせることになって」
「はあ? だからアンタ殺すぞって話してんのになんで俺が慰められてんだよ……」
「はは。まあ良いじゃないですか。要は何がなんでも蒙恬様をお助けすればいいんですよね。そうしたら、蒙恬様も胡漸さんも私も死ななくて済みますし。貴方も後味の悪い殺しをしなくて良いですし」

 目標が明確になった、とすっきりした気持ちでが言うと、どうしてだか後ろから、大きなため息を吐く音が聞こえた。


 それからは会話らしい会話もなく、陸仙は無言で馬を走らせた。
 むっつりと黙り込んでしまった陸仙の事が気にはなったが、今回は文字通り“命がけ”での治療となる。到着後すぐに取り掛かれるよう、胡漸から聞いた情報を元には治療の手順を綿密に組み立てていった。



「ほれ、着いたぜ。センセ」

 思考の海に沈んでいたからか、思ったよりも早く楽華隊の宿営まで着いていた。
 馬から降りたは、ただちに蒙恬がいるという天幕に向かう。
 治療を始める前にこの土埃で汚れた体を清めなければならないが、まずは目視ででも状態を確認しておきたかった。

 しかし案内された天幕の前で、の足は金縛りにあったように動かなくなった。
────いったい自分は、何度同じような光景を見てきたのだろう。

 そこには“死”というものが、形を成して横たわっているようだった。