焚火の明かりは見えるのに、いつもの陽気な声は聞こえない。
 道中で麃公将軍に聞いたところによると、信が今日の戦闘で討ち取った万極という敵将は、かつて秦国軍によって生き埋めにされた四十万の捕虜達の一人だったらしい。

「将軍のおっしゃる通り、信さんたち元気がないですね」
「よォし、よ。 小童 こわっぱ に気合いを入れるぞォ」

 そう言って麃公将軍が向かった先には、物思いに耽る信の背中があった。
 何をするつもりだろうか。将軍に敵意が無いからか、信は背後に迫る将軍に気づく様子はない。

「ぐわっ!」

 バチィ! と聞いただけで痛くなるような音が響いた。
 麃公将軍の強烈な平手打ちが、無防備な信の背中を襲ったのだ。
 崖の端に腰かけていた信は、将軍に押された勢いのまま急峻な斜面を転がり落ちていった。

「信さん!」

 は慌てて信が落ちた先を覗き込んだ。

「ギョワァアアア!!!」
「チューした!」
「今、チューしたぞ!」

 初めに貂の叫び声が聞こえてきた。そしてにわかに色めき立つ男たち。彼らの騒ぎ方から察するに、貂が転がり落ちていった信の下敷きになり、どういうわけか口と口がぶつかる態勢に──つまり“キス”をしたという事になるのだろう。

「うわあ……こんな漫画みたいな事故、ほんとにあるんだ」

 狙いすましたかのような出来すぎた展開に、は心中で驚嘆の声を漏らした。

「ガッハッハ。飲むぞ、小童ァ」

 混乱の元凶である筈の麃公将軍は、意に介する様子もなく豪快に笑う。そして酒の入った巨大な壺とを小脇に抱えると、切り立つ崖を危なげなく下りて行ったのだった。


「は? 信さんが落ちてきたせいで、火がついたままの薪が顔面に当たった!? ……うーん、このくらいの火傷なら膏薬を塗れば治まります。渕さんに預けた分があると思うので、それをよく塗ってもらってください」
「貂は大丈夫だった? 勢いよくぶつかったと思うけど、歯が欠けたり、口の中が切れたりしてない?」
「信さん、背中や頸、傷めてませんか?」

 渦中に入ったは、とっさに被害を受けた面々の治療に取り掛かった。直前まで思考を占めていたやるせなさや無力感は、いつのまにか頭から抜け落ちていた。
 幸いなことに全員大した怪我はなかったのだが、貂が真っ青な顔で茫然としているのが気にかかった。

「貂。大丈夫?」
「あ、ああ……」

 貂はの問いかけにも曖昧に声を漏らすだけだ。目は確かに開かれているのに視点はどこにも定まっていない。
 無理もないか。
 貂は信の事が好きなのだろう。そんな人間と事故とは言えキスをしてしまったのだから、冷静でいられる筈がない。もっとも、貂がその恋愛感情を自覚しているのかは分からないが。

「貂はともかく、信さんの方が全く意識してなさそうなのがなあ……また……」

 この恋の道のりが険しそうなことを感じ取って、はひそかにため息を漏らした。信からしたら、貂との距離が近すぎるあまり、既に“恋人”を通り越して“身内”という認識になっているのかもしれない。


「この大戦で化けてみせろ。わらべ 信」

 そして麃公将軍は流石だった。
 どこか重い空気が漂っていた飛信隊の面々だったが、麃公将軍に発破をかけられ、それぞれに明日以降の戦に対する決意を新たにしていた。
いつもの、飛信隊の宴会が始まる。


***


 函谷関を中心に始まった合従軍との戦の初日。秦国側は、飛信隊が趙将万極を討ち取ったほか、騰将軍が大国楚の将軍臨武君を倒すという輝かしい勝ち星を挙げた。秦軍にとって、亡国の危機に一筋の光を見出す結果となった。
 初日の勢いそのままに、以降も激しい戦いが続くかと思われた。しかしその後はどの戦場においても目立った戦果は得られず、反面、秦国側も致命的な被害を受けることはなく、一日、一日と戦闘が続いた。

 それは国門を守り続けられていると、楽観視できるものではないのだろう。絶え間なくの所へやってくる怪我人の数。日に日に濃くなっていく疲労の影。
 じりじりと此方が息絶えるのを待っているかのような、気味の悪さがあった。

────そして、十五日目。
 明けの空を、開戦を告げるひときわ大きな喊声が震わせた。


***


 オオオオオオオ!

 そこかしこで歓喜の声が上がっている。
 函谷関に迫っていた合従軍は、開戦前の位置まで退却していった。
 楚軍総大将汗明、韓軍総大将成恢の首を捕り、函谷関をめぐって繰り広げられていた戦いは、秦軍側の勝利と言ってよい結果となった。

「よーう、。終わりそうかあ?」
「はい、そろそろ一息つけそうです。皆さんが応急手当ての方法をしっかり覚えてくださったお陰ですよ」

 信が酒を片手に冷やかしにやってきた。
 貂は被害の全容を確かめるため今もせわしく駆け回っているのだが、隊長の信に戦後処理の仕事はないのだろうか。
 しかし、彼が姿を見せたことで痛みに呻いていた兵達が嬉しそうに顔を綻ばせるのだから、彼が兵達から寄せられている信頼というのは、が思うよりもずっと大きなものなのだろう。

「お、じゃあ後はほかの奴らに任せて、飯でも食えよ。残ってる奴らの手当てはお前じゃなくてもできるんだろ?」
「まあ、そうなんですけど……。今は状態が安定している方でも、いつ急変しないとも限りませんし……すぐに対応できるよう今日もこちらに残ろうと思ってまして」

 クソ真面目、と言って信はニッと歯を見せる。
 むっとしたが片眉を上げると、信はそれすらも面白がって「カカカ」と笑い声をあげた。

「なら、顔だけでも見せに来いよ。あいつら、に礼がしたいってうずうずしてたぜ」
「礼ですか……?」

 思い当たるところが無くて、はオウムのように言葉を繰り返した。

「なんで不思議そうなんだ? お前に命拾われた奴らばっかりなんだから当たり前だろ。俺も助かったぜ。ありがとな」

 想像すらしていなかった言葉に、はぽかんと間の抜けた顔で信を見た。
────役立たず。
 そう思われていると思っていた。偉そうに指示を出して、貴重な人手を割いてもらって、それでも、助けられた人より助けられなかった人の方が圧倒的に多かったのに。

「……はすげえよ。自信持て」

 言葉を失っていたを励ますように、信は力のこもった目でを見る。
 慰めや同情だなどと疑いようのない、彼の戦い方のように、まっすぐな眼差しだった。

「信さん、ありがとうございます」
「カカカ。だから礼言うのは俺の方だって」

 それから信は、の手を取って飛信隊の酒宴が開かれているところへ連れて行ってくれた。

 長く苦しい戦いを切り抜け、強大な敵を退けた喜びからだろう。飛信隊の宴は今までにない盛り上がりを見せていた。彼らは信がの手を握っていたことをひとしきりからかい終わると、次から次へと、に感謝と労いの言葉をかけてくれる。
 今度こそ、は彼らの言葉を素直に受け取ることができた。


「なあ、……」
「信さん、どうされました?」

 本営へ戻ろうと腰を浮かせたは、呼び止めてきた信を中腰のまま振り返った。
 何か話したいことがあるのだろうか。
 彼の顔に浮かぶ表情を見て、は信の正面に座りなおす。

 信はおそらく麃公酒に手を付けていたのだろう。人より酒に強い様子の信も、ほんのりと顔を赤らめ、杯を片手に上体をふらふら揺らしている。
 麃公酒の取り扱いは要注意だな、とは眉を顰めてため息を吐いた。これでは急性アルコール中毒になりかねない。

「俺さ……」

 信にしては珍しく、言葉を探すように口を開けて、また閉じた。ためらいながらもそれでも話すことはやめず、“クソ真面目”な顔でを見つめてくる。
 は急かさないように気を使いながら、ゆっくりと相づちを打ち続きを待った。

「……はい」
「お前、見てるとな……」

 しかし信の言葉は途中で切れて終わった。
 此方に近付いてくる複数の蹄の音が聞こえたのだ。その慌ただしさに、信達は敵襲を警戒して臨戦態勢をとる。

「何だ、夜襲か!?」
「────殿! 殿は居られるか!!」
「え?」

 突如、飛信隊中心部まで乗り込んできた騎兵達。
 その先頭で声を張り上げの名を叫んだ男は、楽華隊の副長胡漸こぜん────“彼”が「じィ」と呼び慕う人物だった。