「なんだ、泣いてんのか?」

 円の中心でパチパチと火が爆ぜている。
 空けられていたところに腰を下ろすと、百人将の去亥がの顔を覗き込んで冗談っぽく笑った。

「ち、違いますよ! ちょっと、煙が目に染みただけです!」

 涙ぐんでいたことを指摘されたは、恥ずかしさで顔を真っ赤にして否定した。
 しかし去亥は、の強がりなどお見通しとばかりに笑みを深める。

「ほれ。これ食って元気だせ」

 兵糧を顔面に押し付けられたは、やむなくそのままかぶりついた。
 貂が手ずから作ったという話で、“味より保存性重視”という軍用食のイメージを、根底から覆されるような美味しさだった。
 は去亥からの視線も気にせず夢中になって食べ進める。

「……お前にとったら今回が初陣みたいなもんだったんだろ? ちょっとぐらい涙が出ても仕方ねえさ」
「そうですね、今日のように大人数の治療に当たるのは初めてでした。……泣いてませんけどね」
「ククク。そりゃすげえや。そいつなんて、初陣の時は号泣しながらしょんべん漏らしてて、そらもう目も当てられなかったぜ」

 そう言って去亥が指さしたのは、彼が伍長だった頃から一緒という男だった。いきなり恥ずかしい過去を暴露された男は頬をひくつかせ、対抗するように去亥や他の兵達の恥ずかしい過去を暴き立てていく。
 そこから不毛な暴露合戦が始まり、あっという間に隊全体まで拡大していった。


「──まあ、初陣の時はみんな似たりよったりだよな。例外は信と河了貂ぐらいじゃないか?」

 場を収めるように、松左がのんびりと言った。するとそれまで喧々諤々と言い争っていたのが嘘のように、皆が口々に信と貂の武勇伝を語り始める。
 彼らの口ぶりは、まるで自分自身の自慢話をしているようだった。

「確かに信は初めての戦んときからぶっ飛んでたな」
「河了貂も俺らがぐだぐだ文句言っても平気な顔してたぜ」

 尾平や田永の言葉に皆が頷く。やはり隊を率いるような逸材は初陣の時から人とは違うのだろうか。
 自分ももっと強くならなければ────は湧きあがった想いを内にとどめるように、強く拳を握りしめる。

「いや、信はともかく、オレは最初に飛信隊に来たとき滅茶苦茶緊張してたぞ」
「あ? 俺だって初陣ン時は戦場の空気にアてられていつも通りには動けなかったぜ」

 兵達の“自慢合戦”に横やりを入れたのは当の信と貂だった。

「んなわきゃねェだろ。それでどうやって戦車ぶっ壊したり、敵将討ち取ったりできんだよ」
「隊長はそういうの気にしなさそうなのに……」
「隊長がそんな繊細な人だったなんて!」

 言外に“鈍感”と言われたのを感じ取ったのか、信の顔にはっきりと青筋が浮かんだ。それからは、もはや貶し合っているのか褒め合っているのか分からなくなるような不毛な言い合いが延々と続く。

 まさしく“喧嘩するほど仲が良い”といった様相だ。この程度で隊の結束が揺るぐ事など無いという自信の表れなのだろう。
 その騒がしさが心地よく、気づけばは彼らと一緒になって、これまでの気鬱が吹き飛ぶ勢いで笑っていた。


「──お、食い終わったか。なら次は酒だ、酒」
「遠慮せずにガンガン飲めよ!」
「そうそう! 隊長がせっかく麃公将軍のとこから良い酒貰ってきたんだ」

 しかし皆が口々に酒を勧めてくるのには参った。としては、食糧を確保したらまた麃公将軍の陣に戻るつもりだったのだ。

「……すみません、また本営の方に戻ろうと思ってまして。治療は一通り終わりましたけど、容体が急変しないとも限りませんし……お酒は自重しておきます」

 酒を勧めてきた者達は残念そうに口を尖らせたが、断ったを責めることはなく、「無理しすぎんなよ!」などと背を痛いくらいに叩いて励ましてくれもした。中には手伝いを申し出てくれた人もいて、有難くもあったがそれは丁重に断った。
 明日も厳しい戦場に出ていく事になる彼らには、せめてしっかりと休息を取っておいてもらいたかったのだ。


***


 麃公将軍の差配もあってか、魏軍との戦いはギリギリの状態で均衡を保っている。しかし、寡兵である秦国勢にとってこの状態が長く続けば、じりじりと息切れを起こすことは明らかだった。
────事態が再び大きく動いたのは、魏軍との戦闘が始まってから四日目のことだった。
 中央からの指示で、飛信隊は函谷関に向かうことになった。貂の話では、国門である函谷関に秦国軍の力を集結させるらしい。


 初めて函谷関を目の当たりにしたは、その圧倒的な巨大さに言葉を失う程の衝撃を受けた。均一な大きさに削り出された石が天に届こうかという程に高く、一分の狂いもなく緻密に積み上げられている。
 重機のないこの時代に、一体どれほどの人手と年月が掛けられたのだろうか。一体どれだけの願いが込められているのだろうか────鳥肌が立つほどの興奮が、ぞわりと全身を駆け抜けた。



「おい! ボケっとしてっと置いてかれるぞ!」

 緊迫した声にはハッと我に返った。
 慌てて飛信隊の後を追う。配置に就くべく馬を走らせながら、秦国全土から数えきれない程の兵士達が集結している様に身震いがした。
 手綱を握る手に汗が滲む。
 いよいよ国の存亡を賭けた大戦が始まるのだ。



 途中、すれ違った兵達の中にひときわ目立つ装いの青年がいた。────楽華隊隊長の蒙恬だ。
 ふと視線が向けられた気がしたが、はとっさに目をそらした。
『誰を生かし、誰を死なせるか』
 彼からの問いは、まだ胸の中に重く沈んでいる。


***


 が治療の拠点を置いた麃公軍後方の山地は、戦いの全容を見下ろせる位置にあった。飛信隊が配属された麃公軍は四万で、対する趙軍は十二万だ。

「全軍、突撃じゃア!!!」

 麃公将軍の号令で麃公軍と飛信隊が鬨の声を上げながら斜面を駆け下りていく。
 単純な数だけで勝敗を予想することはできないが、それでも秦軍が圧倒的に不利な戦いを強いられることは明らかだった。


 戦闘が始まればすぐにも大量の負傷者が運び込まれてくると予想していたが、実際にはぽつりぽつりと腕や足を失った者が自力で戻ってくるぐらいだった。
 戦況はが予想していたよりもかなり酷い。
 つまり、重傷者を運びだす余裕もなく置き去りにしているか、深手を負っても離脱せず戦わざるをえないということだ。
 今この時も戦場で多くの命が治療も受けられず絶えようとしているのかと思えば────しかし戦う力のないが負傷兵を助け出しに行ったとしても足手まといになるだけなのは分かり切っていた────は自分の無力さを痛感し、重い息を吐き出した。


「俺はどうなる……?」
「残念ながらこの状態では、腕を元に戻すことはできません。ただ、命に関わることがないように全力を尽くします」

 腕を斬られた男は痛みに耐えるように唇を噛みしめていた。物理的な痛み自体は、鍼を刺して麻痺させてはいる。それでも兵士にとって片腕を失うというのは、どんな痛みよりも耐えがたいことなのだろう。

「命か……。奴らから国を守れるのなら、俺の命なんて、どうだっていいんだよ……今日、死んだっていい。もう一度戦場に立って、一人でも多く敵を斬らねえと……」

 には男にかけるべき言葉が見つからなかった。
 男にとって秦は故郷であり、きっと大切な人々が残されている拠り所なのだ。国が滅亡するということの大きさを、は本当の意味でまだ分かっていなかった。

「……今から右上腕部の再形成を行います」

 しかし今は迷っていること自体が悪手だった。が手を止めている間に目の前の患者が死ぬ。治療を待つ患者も死ぬかもしれない。

────切り取る皮膚の長さ、形状をイメージしながら、血管や筋肉を一つ一つ手早く、けれど丁寧に処理していく。
 手術を補助してくれる人もいない中で、は針の穴に糸を通すような集中を延々と続けた。目に汗が滲んで視界が歪む。堪えきれずに天を仰ぐと、男の不安そうな視線に気がついた。
 いけない。医者がこれでは患者を不安にさせる。

「大丈夫ですよ、もうすぐ終わります。痛みはありませんか?」
「ああ……」

 口当てで表情が見えづらくなっている分、は目を細めて笑顔を作った。
 消毒した鋸を手に取り、骨の長さが皮膚よりも短くなるように切っていく。失った腕がさらに切り取られていく様に男が驚愕しているのが伝わってきたが、それでも彼は身じろぎ一つすることなく、じっと気丈に耐えてくれていた。
 最後に長めに残しておいた皮で断面を覆い、素早く縫合していく。

「──終わりました。初めての経験だったでしょうに、よく耐え抜いてくださいました」
「そんな大層なもんじゃない。あんたの手際の見事さに見惚れてただけだ」
「そうですか。フフッ、ありがとうございます」

 男の青白かった頬に赤みが戻り始めていた。
 今にも戦場に戻ろうとする男に数日間の安静を指示して、は次の患者のもとへと向かった。


***


 日が暮れ始めると、途方もない数の負傷者が運び込まれ始めた。その殆どが、ここまで息をつないできたことが不思議なくらいに全身に深い傷を負っており、は少しでも回復の見込みがある患者に医療資源を割く判断をせざるをえなかった。


「……殿に、言伝があります」

 が手を止めるタイミングを見計っていたのだろうか、ためらいがちに話しかけてきた男がいた。
 男はある者から、に対しての伝言を預かってきたという。

────男が口に乗せたのは、“謝罪と感謝の言葉”だった。
 その内容を聞いて、にはすぐに思い当たる人物がいた。

「あいつは死にました。戦場で、片腕だったけど沢山の敵兵を殺して。最期は、満足した顔で逝きました」

 それは、片腕を斬られてが治療に当たった兵士の事だった。
 昔からのなじみで、いいやつだった、いつも自分のことは後回しで────男は濡れた声でぽつりぽつりと語る。男がすべてを出しきるまで、は言葉を挟まずにじっと、耳を傾けた。

 ありがとう、あなたも今日は疲れたでしょう、よく休んでくださいね、眠れないようなら眠りを促す薬湯を用意しますよ。
 冷たくなった指先をぐっと握りしめて、声が震えないようにゆっくり、ゆっくり、言葉を紡いだ。


***


 男の姿が見えなくなってから、はやりきれない思いで苦い息を吐いた。
 明日も戦は続く。包帯や縫合糸、膏薬、蒸留酒等々の準備、器具の手入れ……やるべきことは山ほどある。────は重い足取りで、のろのろと天幕の方へ向かった。

「何じゃァ、よ。医者がかように辛気臭い顔をしとると治るモンも治らんぞォ」
「しょ、将軍!」

 背後から突然現れた麃公将軍に、は慌てて姿勢を正し、手を前に合わせて礼をした。
 麃公将軍は豪快に笑うと、についてくるよう言う。将軍が傍らに抱えた巨大な壺からは、ツンと鼻をつく強い酒の臭いがした。

「飛信隊に檄を飛ばしに行くぞォ! あ奴ら、討ち取った敵将に同情して、何やら沈んでおるようじゃからのォ」
「あの……明日の準備がありますし、できれば私は遠慮したいのですが」
「クソ真面目クソ真面目。医者にも休息が必要じゃ。ぬしが倒れたら元も子もなかろォ」

 それ以上反論する間を与えず、麃公将軍は米俵を担ぐようにを肩に載せる。
 急に高くなった視界には慌てた。

「わ、分かりました! 一緒に行きますから! とりあえず下ろしてください!!」
「バハハハ。この方が早い。このまま行くぞォ」

────秦国きっての武人に対して、ができる事などたかが知れていた。何を言っても聞く耳を持たない麃公将軍に、は早々に抵抗を諦め、なすがまま飛信隊の本陣の方へと“運搬”されたのだった。