「ふっ…はは! いやあ、すごいなあ。正直、今の話の半分も分からなかった」
「で、ですよねえ! 」

 結局、面白がられただけだった。
 はいたたまれなさで顔を覆った。顔が熱い。気配で蒙恬が肩を揺らし笑っているのが分かる。

「……飛信隊でちゃんに手当された人の話を聞いたよ。神様みたいに何でも治してくれるんだってね」
「そんなこと、ないですよ……まだまだ、できないことばかりで……」

 神様、という言葉に頭の奥がキンと冷えた。これまで助けられなかった人達のことが脳裏によぎる。
 情けない顔をしている所を見られたくなくて、置き所のない視線を足元に落とした。

「やー真面目だなあ。ね、俺が怪我したらちゃんが治してよ」

 頭の上に手を置かれた感触がして、は思わず抗議の目で蒙恬を見た。それでも構わず撫でまわしてくるその仕草は幼い子供に対するものだ。
 けれどなぜかそれが心地よく、はされるがままになる。

「もちろん負傷された方がいれば治療はしますけど……そもそも、怪我をなさらないでいただきたいんですが」
「うーん、俺も一応、武人だからさ。できれば怪我はしたくないけど、戦場に出ればそれより優先しないといけない事は出てくるし」

 声の調子こそ軽かったが、その言葉が冗談でないことはにも分かった。

「……でしたら、這ってでも生きて戻ってきてください。死んだ人間をよみがえらせることはできませんが、生きていてさえ下されば、ある程度のことは何とかなりますから」
「フフッ。頼もしいなあ。じゃ、予約したから。忘れないでね」
「はい、承りました。ただ大事なことだから繰り返しますけど、できる限り、怪我はしないでくださいね」
「はーい。あ、ねえねえ、これって信にも言ったの?」

 どうしてそんなことを聞くのだろう、は意図の読めない問いに首を傾げる。

「まあ……似たようなことは」
「ふーん」
「でも、信さんはそういう器用なことはできないのだとここ数日でよく分かりましたので。期待しないことにしています」

 彼らは『飛信隊』という隊の名の如く、飛矢のようにいつも真っ直ぐだ。だからこそ、時に自分の身を顧みない戦い方をする。————それならそれで、戻ってきた者達だけでも確実にその命を助けていくだけだ。

「ハハッ! そっかそっか。ねえ、ちゃん。俺の隊に来ない?」
「え?」

 は二重の意味で困惑した。いきなり引き抜きの話をされた上に、どうしてか蒙恬の手がの首筋に回されているのだ。
 体を引き寄せられ、自然と顔が近くなる。

ちゃんの技術をさ、うまく活かせるのは楽華隊だと思うんだ」

 神経の集まる場所を意味ありげに撫でられ、ぞわりと全身が粟立った。バクバクと心臓が暴れて息が苦しくなる。

「……なぜ、そのように思うのですか?」
「河了貂も優秀な軍師だけどね。彼女は優しすぎるから、“命の選別”は苦手なんだよ」

 低く穏やかな声だ。しかしその言葉だけで、ピシャリと頬を張られたような衝撃があった。は何か言い返そうと唇を開き、閉じ、また開く。

「仰る意味が……よく分からないのですが」

 絞り出した声は引き攣れていた。必死で冷静さを取り繕って、回されていた手を外し距離を取る。

「そうかな? もう、君は俺がこれから言おうとしていることが分かっているみたいだけど。————俺なら、君が誰を救うべきか選ぶことができるよ」
「……私は、目の前の人を助けるだけです」
「うん、今まではそれで済んだんだろうね。だけど、これから君が出ていく戦場では、何千何万という人間が同時に死に瀕することになるよ。その時、君はどうするの?」

 蒙恬の目が鋭く細められる。の迷いを何もかも見透かされているようで息が詰まった。

「君は神様みたいな医者かもしれないけど、何万人も同時に治すことはできないんだろう? それなら、誰を助けることが、その時の戦況、そしてこれからの国にとって有益なのかを選ばなければならない。誰を生かし、誰を死なせるか……ちゃんにそれができる?」

 胸の奥にしまい込んでいた心の最も柔い部分を抉り出されたような気がした。喉がからからに乾いてうまく言葉にならない————

「ま、ちょっと考えといてよ。返事は急がないからさ」

 そう言って蒙恬はゆるやかに立ち上がる。
 最後に軽く触れられただけの肩が、にはどうしようもなく重く感じられた。


***


『何千何万という人間が同時に死に瀕することになる』

 結局の所、にはこの言葉の本当の意味が分かっていなかったのだ。どうにかなると、甘く考えていた。


「テン! と一緒に下がってろ!」

 そう言って信は兵を率い急峻な斜面を駆け下りていく。眼下では既に数えきれないほどの兵達が戦っている。
 秦国に侵攻してきた魏軍はおよそ十万。相対する麃公軍はわずか一万程度という話だ。秦軍にとって非常に厳しい戦いが始まるのだろうと、は固唾を呑んで見守った。

 しかし、なぜか麃公将軍は一転退却の指示を出し、馬首を返して自陣へと戻っていく。対する魏軍の将も背を見せた麃公将軍を追撃することなく、自陣奥へと帰っていった。

「な、何が、起きているんだ……?」

 戦場を俯瞰する貂が困惑の声を漏らす。
 軍師である貂すら両将軍の意図を掴めていないようだった。兵法を学んだことのないに分かる筈もなく、とにかく戻ってきた兵達の治療に専念しようと気持ちを切り替える。

 麃公軍の本陣近くに天幕を張ってもらい、直ちに重傷者の治療に取り掛かった。
 その間、軽症の患者の手当ては兵同士で行ってもらうことにして、中症の患者については、ある程度心得のある者に応急の止血法を伝えて対処してもらった。


 幸いだったのは、麃公将軍がの存在を全面的に認めてくれたことだろう。

『娘ェ、名を何と言う』
と申します』
『フッ、面白いのォ。よ、貴様はまこと面白き炎を纏うておるな』
『“炎”、ですか……?』
『ハッハ! よいか、儂の兵達よ! この者の指図をよく聞けィ。死にたくなければなァ!!』

 麃公将軍がこのようにを支持してくれた後、それまで不審の目でを見ていた麃公兵達が打って変わって精力的に協力してくれるようになったのだ。
 何とか全ての兵の治療が終わったのは、日が傾き始めて天幕の周囲に篝火が灯された頃だった。


、お疲れ様」

 貂が差し出してくれた水をはゆっくりと喉に流しいれた。それでもあっという間に空になった壺を前に、これまで水分補給すらろくにしていなかったことを思い出す。

「……ありがとう。貂が色々と手伝ってくれて、本当に助かった」
「ああ。これからもオレにできることがあったら何でも言ってくれ」
「頼もしいなあ。ほんと、貂はすごいね」

 気を抜けばボロボロと弱音が零れ出しそうだった。
 東金城を出てからずっと何とか気を保っていたが、もう限界だった。頭はジンと痺れていて、体は自分のものではないように重たい。
————役立たず。お前に何ができる。
 侵攻を受けた城で皆殺しにされていた女性や子供達、戦場に打ち捨てられた幾つもの死体。傷が深すぎて治療を諦めた兵士。治療の順番が来るまでに息絶えてしまった兵士————数えきれないほどの“死”が、冷たい現実をに突き付けてくる。

、あっちに飯の用意ができてるからさ。一緒に食べよう」
「うん……」
「ほらほら! 遅れると信達が全部食べつくしちゃうよ!」

 そう言って貂はの手を引いていく。
 は一瞬ためらったが、貂の勢いに圧され、引っ張られるままに飛信隊が陣を張る丘の方へと向かった。

は戦に出るのは初めてなんだっけ」
「うん……甘かったな。戦場で私ができることなんて、本当にほんの一握りだった。貂はすごいよ。軍師として、皆の役に立ってて」

 辺り一帯に張られた天幕の間を縫うように歩きながら、貂とはぽつりぽつりと話をする。

「オレが飛信隊の軍師になったのはわりと最近なんだ。これまで何とか切り抜けてきたけど、今でも怖いよ。オレが少しでも策を誤れば、数十人単位の仲間を死なせてしまうんだ。それを信達は責めたりしないけどさ……」

 そう零す貂の背中は小さい。
 戦場での彼女の存在は大きく、皆の信頼を一身に背負っていて、彼女もまた、一人の少女なのだということを忘れかけていた。

「私には戦の事はよく分からないけど……貂がそうやって彼らを盤上の駒として見ないから、みんな安心して命を預けられるんじゃないかな」
「へへっ。ま、あいつらを駒扱いしないってことだけは自信持って言えるかな。オレがここまでやって来れたのもあいつ等のお陰だからさ」

 振り返った貂は屈託なく笑った。
 それが信の笑い方とよく似ていて、いつか尾平が言っていたように、信と貂が長い付き合いなのだということを改めて感じさせるものだった。
————なら、私は。
 足は前を向いて進んでいるのに、どこを歩いているのか分からない。
 自分は何者なのか。自分がこの時代に転生したことに何の意味があるというのか。もっと経験のある医者だったら結果は変わっていたんじゃないか。
 ぐるぐると出口のない思考を繰り返す。足下の感触はひどく曖昧で、まるで地面から数センチ宙に浮いているみたいだった。

「っと、オレが励まされてどうするんだ……、これは信の受け売りなんだけどさ。こういう時、オレ達飛信隊は、一人で何もかも背負いこむんじゃなくて、みんなで美味しいもん食べて、しんどい事も嬉しい事も共有するんだ!」

 ふわり、と鼻腔をくすぐる匂いがあった。
 貂が指差した方を見ると、飛信隊の面々が火を囲んで酒宴を開いている。皆、どこかしらに傷を負っていて疲労の影が見えたが、それでも彼らの表情は明るかった。

「テン、遅ェぞー!」
センセー! こっち来て飲みましょうよー」

 円の中心近くに“二人分”の席が空けられていた。
 一歩、一歩、乾いた地面を踏みしめて貂の後を追う。近づけば近づくほど、焚火の煙が目に染みて、少しだけ、涙が滲んだ。