信が敵将を倒すと、配下の兵達は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 城外から貂と一緒に動静を見守っていたは、韓軍が撤退するや一目散に城へと駆け出した。
 一番に確認したかったのが祖父の安否だった。祖父は孫には甘いが自分自身には非常に厳しい。飛信隊の助けが入る前に、国主としての誇りを保つためにと自殺などしてやいないかと気が気でなかった。

「おじいちゃん!」
……! 無事じゃったか!」

 祖父の姿を認めてさらに足を速めた。目の前まで駆け寄ってどこにも外傷がないことを確認したは、全身から力が抜けてその場にへたり込んでしまった。

「良かった、本当に……」
「ああ。飛信隊の皆様の助けがなければ……儂らは皆、自決しておった」

 やはりの予感は嫌な方向で当たっていたのだ。自分も危うく奴隷にされていたかもしれないことを思うと、あのタイミングで助けが来たことは本当に奇跡としか言いようがなかった。


***


 最も軽傷だった者の治療まで済ませた頃、広場では飛信隊に対する饗宴が始められていた。
 は酒気の混じった陽気な声を聞きながら、手早く荷物をまとめ始めた。
 祖父と相談して決めたことがあったのだ。



 飛信隊は先を急いでいたらしく、瞬く間に酒と食事を腹に収めるとあわただしく出立の用意が始められていた。

「この度は国の危機を救っていただき、お礼の申しようもございませぬ」
「気にすんな、じーさん! 俺達が好きでやったんだからよ」
「それでは我々の気が済みませぬ。皆様がいらっしゃらなければ、我々は皆死んでおりました。つきましては……や」

 国主として飛信隊の見送りに出ていた祖父に呼び寄せられ、は祖父の隣に出て行った。まずは指示されていた地図を信へと手渡す。

「小国ゆえ、皆さまに差し上げられるものは多くございませぬ。これはこの辺り一帯の地図にございます。目指されている東金城への道も記させました」
「お、これはありがてェな。俺ら地図持ってなかったから」

 信は地図を受け取って屈託なく笑った。秀が助けを求めたのがこの青年の率いる飛信隊で本当に良かったと改めて思う。窮地を救ったことを恩に着せ、無理難題を吹っ掛けられてもおかしくなかったのだ。

「それから、この者は儂の孫娘にございます。どうか皆さまと共にお連れ下さい」
「なっ……!」

 は祖父の紹介を受けて頭を下げた。
 しかし何も反応がないことを怪訝に思い顔を上げると、何故か貂は絶句し、信は顔を赤くしている。

「ど、どうする?」
 
 信は所在なさげに貂の方を見たが、鬼の形相で睨み返されると後ずさりして焦ったように乾いた笑いを漏らした。

「は、はは。違ェって、テン!」
「……オレ達、一般人を虐げるようなことは絶対しないと決めているんです」
「はぁ」

 真剣な表情で改めて貂達の信念を宣言されたのはいいが、結局の同行に対する返事はどうなったのかと首を捻る。

「なので、さんを差し出す必要なんてありませんから。安心してください」
「あれ、私って差し出されるの?」

 信の妾になるつもりも、従軍の娼婦になるつもりもない。そんな話は聞いていないぞと祖父の方を見やると、祖父はが見たこともないような険しい表情を浮かべていた。

「大事な孫娘をどこの馬の骨とも分からぬ男に差し出すなど、天地がひっくり返ってもあり得ませぬ……!」
「え?」
「えっ……?」

 怒りをあらわにした祖父に対して、信も貂も疑問の声を上げる。それを傍から見ていたは、ようやくこのやり取りの食い違いに気が付いた。

「ご、誤解です! 私は医者ですから、怪我人や病人の治療などきっと皆さまのお役に立てることもあるかと随行を願ったのです。身を売るつもりなんてありませんよ!」
「なんだ……そうだったのか」

 が必死で否定すると、貂はあからさまに安堵していた。はそれを見て、女性である彼女が軍師として危険な前線にまで出てきていることに得心した。きっと彼女は信の事が好きなのだ。

は並ならぬ腕の医者に御座います。必ず、皆さまのお役に立ちましょう」
「けど、そんな良い医者を連れて行っていいのか? お前らが困るんじゃねェのか」
「問題ございません。この国には、が残していってくれた知識と、人材がありますので」

 祖父の迷いのない返事に信達も納得したらしく、は飛信隊の軍医として東金城まで随行することになったのだった。


***


 東金城までの道中では、信が敵兵に包囲されるなど色々と予想外の出来事もあったようだ。
 しかしは最後方に配置されていたためにそうした緊迫感は伝わってこず、樹海に自生する薬草を背負い籠いっぱいに詰め込みながら、意気揚々と東金城の門をくぐったのだった。



「よーう、信! おひさ~」

 飛信隊が前線での小競り合いから帰還し、の治療を受けていた時のことだった。軽い掠り傷のみで済んでいた信の腕に薬を塗っていると、信に親し気に話しかけてきた青年がいた。

「よう! 蒙恬、久しぶっ————」
「ちょっと、どうしたのさ信! そんな可愛いコ連れて!」

 蒙恬という青年は信の言葉を遮ってを指さし、興奮気味にまくしたてる。普段は自由奔放な信が少し押され気味になっているのが珍しい。

「……お、おう。は、ここに来るまでに寄った国から連れてきたんだ」
「へえー! 信も隅に置けないな!」
「あの、私は医者でして。蒙恬様の想像されているようなことは何一つしておりませんので」

 言葉足らずな信の説明のせいで、蒙恬はを信の妾か何かと誤解しているようだった。
 国を出たときのような不毛なやり取りはごめんだ、とは二人に割って入って自己紹介をした。

「そっか、お医者さんか。治療の邪魔しちゃってごめんね」
「大丈夫ですよ。飛信隊の皆さんの治療はこれで終わりでしたから」

 最後に信の腕に巻いた包帯を固定して、は蒙恬の方を見た。蒙恬はなぜか片眉を上げ、怪訝そうな表情を浮かべている。

「え? 隊長の信が最後だったの?」
「はい。さすがと言いますか、信さんの傷が一番少なかったので」

 がそう答えると、信が得意げに胸を反らす。蒙恬が一瞬、眉を顰めたように思えたが、瞬きの後には元通り人好きのする笑顔に戻っていた。


***


 その晩、飛信隊と楽華隊で酒宴を開くことになった。いつの時代も、何かと理由をつけて飲み会を開きたがるのは変わらないらしい。

ちゃん。はい、どうぞー」
「ありがとうございます」

 杯になみなみと酒をそそがれる。飛信隊の誰かかと思い隣を見ると、そこには楽華隊隊長の蒙恬が座っていた。

「あ、蒙恬様でしたか」
「隣いい? さっきはあまり話せなかったからさー」

 もう座っているけど、と思いつつは頷いた。
 いざ話し始めると、彼がその軽薄な見た目や言動とは裏腹に、一を聞いて十を知る理知的な青年だということがよく分かった。“脳筋”が多い飛信隊の面々よりも話しやすく、は酒が入ったこともあってかなり口が軽くなっていく。

「ですから! 飛信隊の皆さんにはもっと自分の身を大切にしていただきたいのです」
「うんうん、お医者さんからしたらそうだよねー。でも隊長が信だと、それは難しいんじゃないかな」
「……はい、この数日でそれを痛感しています」
「あはは、だよねー。まあ、あれでも河了貂が軍師として加わってだいぶマシになったと思うよ」

 蒙恬はそう言って、再びの杯になみなみと酒を注ぐ。はそれを一気に飲み干した。かなり度数の高い酒なのか、喉が焼け付くようだった。

「……蒙恬様。これよりも強いお酒はありますか?」
「へー! ちゃんってお酒強いんだね」
「いえ、消毒用にいくらかいただこうかと思いまして」
「“ショウドク”?」

 蒙恬がの言葉に小首を傾げる。
————うわあ、イケメンって何してもかわいいんだなあ。
 酔いが回り始めたのか頭がふわふわして、口にしたら引かれるだろうことばかりが脳裏に浮かぶ。

「消毒とは……毒を消すと書きまして……万能ではありませんが、強い酒を使えば、傷口が腐るのを防ぐことができるのです」

 煩悩にまみれた本音を何とか押し込めて、は努めて冷静に消毒の説明をした。

「へえ、酒って美味いだけじゃないんだ」
「清潔を保つ……それだけでも、傷の治りが全く、違います」

 いよいよ酔いが回ってきたらしい。ふらふらと所在なく前後し始めた上体を蒙恬の腕が支えてくれた。

「す、すみません……って、蒙恬さま!?」

 ふいに首元に蒙恬の顔が近づいてきて、仰天したは目を白黒させながら大きく後ずさった。

「ど、どっどうされました!?」
「フフ。だってちゃんって何だかいい匂いがするんだもん」

 慌てふためくと違って、蒙恬は余裕に満ちている。なんだか悔しくなって、は右往左往している心臓を必死で落ち着かせた。

「それはですね……私が石鹸を使っているからですよ。石鹸というのは————」

 は石鹸について、その効能から作り方まで、微に入り細に入り、事細かく説明した。
 水酸化カリウムの調達から混ぜる脂肪の種類、固形石鹸にするまでの濃度の調整等々————聞きなじみ無いであろう単語の奔流を受けて、蒙恬がぽかんと間の抜けた顔をする様は実に気味が良かった。
 そんな顔でも、もちろんイケメンであることに変わりはなかったが。