これは紛れもない現実だと結論付けてしまえば、それまで感じていた違和感は割と簡単に払拭された。
 なにせ、身体中が痛いし、辺り一帯は臭いし、地面は固いし、隙間風は寒い。これが夢だとしたら、自分はかなりの被虐趣味だと思う。


***


、あの時はごめんね」
「ううん。私こそごめん。びっくりさせたよね」

 と一緒に山から助け出された少女は、雪という名前だった。雪はが目を覚ましたと聞くや、不自由な足ですぐに見舞いに来てくれた。

「私……はもうずっと話せないのかと思ってたから。これからいろんなお話ができるんだね!」

 邪気のない笑顔がまぶしい。
 この身体に残る記憶の中には、いつもこの少女の姿があった。
 が今流暢にこの国の言葉を話せているのは、きっと雪が物言わないに対しても諦めずに話しかけ続けてくれたからだ。

 それから雪は、色々なことを嬉しそうに教えてくれた。
 あの山には擦過傷に効く薬草が多く自生しているそうだ。

「またいっぱい採ってきてあげるから、もすぐに治るよ!」
「待って待って! 貴方の方がよっぽど重傷だから!」

 今にも薬草を採りにいこうとする雪を、は全力で引き留めた。足の骨が折れているのだ。お願いだから安静にしてもらいたい。


***


 それから数日して、自由に起き上がれるようになったは、徐の壁内を探検してみることにした。

 は国の中心部から城壁までをひとしきり見て回った。この国は、のような幼子でも端から端まで歩けてしまうくらいかなり小さな国のようだった。下手をすれば、が務めていた病院の方が大きいかもしれない。

————ここは、どこで、いつの時代なのか。
 歩きながら簡単に見て回った限り、が生きていた世界とこの国の文化水準は明らかに異なっていた。今時、どんな国のどんなド田舎であろうと機械仕掛けの道具や携帯電話の影すら窺えないのは不自然だ。
 過去にタイムスリップしてしまったということなのか。あるいは、“意図的に”文明の利器を排除した懐古主義のカルト集団という可能性もあるだろうか。

「……なんだか、とんでもない所に来ちゃったなあ」
「なんだい、ちゃん。迷子になっちゃったのかい?」

 背後から聞こえた声にの肩は跳ね上がった。
 どうやら考え事が声に出てしまっていたらしい。

「う、うん……」
「ちょっと待ってておくれ。これが終わったら、長老の所に連れて行ってあげるから」

 恰幅のいい女性はおろおろするを快活に笑い飛ばすと、井戸の中に甕を落とし、息を切らしつつ綱を手繰って引き上げていた。

「滑車を使えばもっと楽になるのに……」
「ん? カッシャって何だい」
「えっと……」

 対応する単語が違うのかもしれないと思い、は指でその足元に滑車の図を描き、滑車を使えばより小さな力で重いものを持ち上げられることを説明した。

「へえ! よく分からないけど、便利なものがあるんだねえ。楚人にでも聞いたのかい?」
「そじん?」
「違うのかい? 楚ぐらいでかい国だったらそういうのもあるのかと思ったんだけど」

 とっさに漢字変換ができなかったが一つ思い当たったのが『楚』という古代中国の大国だった。楚、秦、燕、斉、趙、魏、韓────高校時代、世界史で習った地図が頭に浮かぶ。

「そ、そうだよ。この前、楚の人に聞いたの!」
「長老のとこには楚、趙、魏の連中が他国の情報を求めにやってくるもんねえ」

 自明の事として女性が話すこと一つ一つが、今のには何よりも貴重な情報だった。
 楚、趙、魏とくれば、やはり中国戦国時代の七雄だ。
 国としてはやけに小規模だと思っていたが、この“徐”という国は、三つの大国の間で情報を流すことで生き残っているということだ。


「————すまなかったね。この子、言葉が話せるようになったと思ったら、今度は勝手にあちこち歩き回るようになってしまってのう」
「これくらい構いませんよ! 子供は元気が一番ですから!」

 今のは外見こそ六歳女児だが、中身はいい年した大人である。さすがに元来た道を戻るくらいのことはできたのだが、話の流れで祖父の邸まで送ってもらったのだった。

「おばちゃん、送ってくれてありがとう!」
「いいよお、これくらい。あの“滑車”だけど、旦那に作らせてみるよ。できたら見に来とくれ」
「うん、楽しみにしてるね!」

 女性が帰った後、は祖父から懇々とお説教されることになった。しかし、言葉の端々に孫に甘いおじいちゃん感が見え隠れしていてあまり説得力はない。

「勝手にいなくなると儂も気が気じゃないからの」
「おじいちゃん、ごめんなさい! これからは気を付けるね」
「うむ。分かればいいんじゃよ、分かれば」

 そう言って祖父は目尻を下げ、優しくの頭を撫でてくる。
 対しては、殊勝な顔をしながら内心で中々に性格の悪いことを考え始めていたのだった。


***


 が何の因果か古代中国の戦国時代に転生してから、早くも十年余りの月日が流れていた。
 あの時、が祖父に対して覚えた感覚は当たっていたようで、あれから事あるごとに「おじいちゃん、お小遣いちょうだい!」のノリで色々な道具を作ってもらったり、徐の人々にそれを広めてもらったりした。

 医者の端くれだったが一番に取り組んだのが公衆衛生の確立だった。
 細菌が発見されたのは17世紀に入ってからのことで、この時代の人に身体を清潔に保つことの大切さを説いてもなかなか受け入れてはもらえなかった。最初に石鹸を作ったのはその意味で正解だったとは思う。実際に汚れが落ちてさっぱりする感覚を体験してもらうのが一番だった。


「おばあちゃん、お加減はいかがですか」
「中々ねえ……まあ私も年だから、いつも元気いっぱいとはいかないさ」

 が幼い頃からお世話になっていた薬草使いの老婆は、ここ何日か腹痛を訴えて床に臥すようになっていた。
 内科系の診断は難しい。現代の医療が高度な検査技術によって支えられていたことを痛感する。仮に診断ができたとしても、それが癌等であれば今のにできることは無いに等しかった。

「薬草、少なくなってたよね。山で取ってくるね」
「気を付けて行っておいで」

 老婆に送り出され、は二重に作られた砦の外まで出てきた。
 その時、外壁に何頭か見覚えのない馬が留められていたのだが、は特に気に留めることなく、そのまま山へと向かったのだった。


***


 地面が揺れる感覚には身を震わせた。
 最初は地震かとも思ったが、が日本で体験してきたものとは全く異なる揺れだった。

 徐国の被害が心配になったは、薬草の採取を取りやめて山を下り始めた。その間も断続的に揺れが続く。風に乗って歓声のような悲鳴のような人々の声が微かに聞こえてくる。

「いったい何が起こってるの……?」

 あと少しで徐国に戻れるというところで、がいつも急患の伝達に使っている鳥が文を携えて飛ばされてきた。
 は急いで文に目を走らせる。読み終わるや否や、なりふり構わず全速力で走り始めた。

『お前は逃げなさい。お前の医者としての評判は他国にも届いている。三国のいずれに亡命しても保護してもらえるはずだ』

 脳裏に浮かんだのは、出掛ける間際に見た見慣れぬ馬達の事だった。もしかして楚、趙、魏の三国以外に徐国の存在を知られてしまったのかもしれない。
 迂闊だった!
 あの馬達を見たときにそこまで思い至るべきだった。この轟音は、既に城内まで攻め込まれているということなのだろうか————


「っ……!」

 ようやく城壁の見える平原まで下りてきたところで、は目の前に広がる光景に言葉を失った。
————今までを育ててきてくれた、徐国の人々の死体が幾重にも折り重なり、無造作に打ち捨てられていたのだ。

「な、なんで……こんな……」

 矢や槍の刺さった死体、首を斬られた死体————そのほとんどが女性や子供だった。逃げようとする彼女達を敵は追い詰めたのだろう、傷は背中側に集中している。

 人が燃やされる臭いに込みあがる吐き気を堪えながら、は必死でまだ息のある者がいないか探し回った。

「夕ちゃん! よかった、生きてる……!」

 地に臥した人々の殆どが既に息を引き取っていた。ようやく見つけた少女は腕に矢傷を負っていたが、彼女の母が覆いかぶさり彼女を守っていたお陰で命に係わる傷は負っていなかった。

「大丈夫だからね。今、手当するから」
姉……みんな、みんな死んじゃった……おっ母も死んじゃった……」

 虚ろな表情で涙を流す少女に、は何もいう事が出来なかった。せめて傷の痛みを和らげようと念のために持ち歩いていた膏薬を取り出し、矢尻を取り除いた痕に慎重に塗りこめる。

「ちゃんとした手当はみんなを見て回った後にするからね。まだ敵がいるかもしれないから、動き回ったらだめだよ」

 少女が小さく頷いたのを確認して、は再び周囲を見渡した。他に動く影はなく、やはり一人ひとりの状態を確認していく必要がありそうだった。

 慎重に見ていくと少女のほかにも僅かだが生き残りがいる。
 応急の処置をして回っていると、遠くから蹄の音が聞こえてきた。は慌てて遺体の陰に身を隠して息をひそめた。

「なんだァ、まだ生き残りがいたのか」
「見せしめだからな。徹底的にやるぞ」

 騎兵らしき男達はまだ息のある者達をわざわざ探し出して、念入りに槍で突き殺していく。
 はただひたすら息を殺してそれを見つめることしかできない。助けに行く勇気も力もない自分が情けなかった。

 男達の声が少しずつ近付いてくる。早くどこかへ行ってくれ、早く、早く、早く────

「お! 上玉がいるじゃねえか」
「ひっ……!」
「売っ払ったらイイ金になるんじゃねェか?」

 ついにも男達に見つかってしまい、髪を掴まれて否応なしに上を向かせられる。下卑た視線が向けられ、男達の話す内容には言いようのない恐怖を覚えた。

「売っちまう前にちょっと味見し————」
「ルアア!!」

 引っ張られていた力が突然弱まり、バランスを崩したはその場に尻餅をついた。声にならないまま恐る恐る顔を上げると、を襲っていた男達がなぜか地に臥している。

「信! 一人で突っ走るなよ!」

 突然のことにが茫然としていると、揃いの鎧を身にまとった兵たちがぞろぞろと平原に雪崩れ込んできた。

「しゃーねーだろ、テン! こいつが今にもやられそうだったんだ!」
「それでももっと周りも見てからにしろよ! 他に伏兵がいたかもしれないんだから」

 喧々諤々と言い合い始めた馬上の二人を見上げながら、痺れていたの脳は徐々に感覚を取り戻していった。

「……あの! 助けていただき有難う御座います」
「ああ。こいつが俺達をここまで連れてきてくれたんだよ」
「秀! そんな傷だらけの身体で……」

 青年の腕には徐人の少年が抱えられていた。は慎重に馬上から少年を引き取るとすぐさま傷の具合を確認する。

姉……おっ母達がまだ中にいるんだ」

 少年は震える手で砦の方を指さした。それを見た信という青年と貂という少女が顔を見合わせる。

「テン! 一応確認しとくが、韓とは戦っても問題ねェよな」
「もちろん、問題ない!」

 信の問いかけに貂が力強く頷くと、信は直ちに後ろに控える騎兵たちに号令をかけた。
 信の一声で数えきれないほどの兵達が城内へと雪崩れ込んでいく。が唖然として見守っていると、続けざまに何百もの歩兵が達の前を駆け抜けていった。

姉。おっ母、大丈夫かな……?」
「大丈夫だよ。秀がこんなに頑張ったんだから。きっとあのお兄ちゃん達が助けてくれる」


 は秀の傷痕に薬を塗りながら、信達が韓軍を退けてくれることを、ただ願うことしかできなかった。