事故・災害現場は想定外の連続だ。だからこそ、これまで臨機応変かつ適切な対応を叩きこまれてきた。
────だけど。こんな事って。


***


 は、この日を最後にヘリを降りるつもりだった。
 自分には向いていなかったのだ。そのことにもう少し早く、気付くべきだった。

『お前、腕だけは良いんだがな』

 は初期臨床研修を終え、一人前のフライトドクターになる事を目指して修行を積んでいるところだった。
 まだまだひよっこも良いところ。指導医からは毎日のように罵声混じりの厳しい指導を受けている。

『外科医としての腕は悪くない。むしろ並み以上だ。だけどお前には、救命救急医としての適性が決定的に無いんだよ。さっさと見切りつけて脳外科なり心臓外科なりに行った方が伸びると思うぞ』

 今思えば、指導医のこの忠告はもっともな指摘だったのだ。だけど救命救急はが医者を目指した理由の全てで、は自分には救命救急しかないと思っていた。

────だけどやっぱり、もっと早くにヘリを降りるべきだったのだ。

「先生! あちらに要救助者数名! お願いします!」
「分かったすぐに向かう! 、ついてこい!」

 緊迫した声にはハッと我に返った。いけない。今は目の前のことに集中しなければ。
 山間部のトンネルで老朽化した天井が崩落。それが多重事故を引き起こし、重傷者だけでも十数名に及ぶ。消防隊員に先導されて向かった先では、天井があちこちで崩落していて一帯に埃と油と血の臭いが漂っていた。そこかしこからうめき声が聞こえる。
 は直ちに指導医と手分けしてトリアージに取り掛かった。

「いたい……痛いよぉ……」
「私はお医者さんだよ。今助けてあげるから、もう少し待っててね」

 六、七歳くらいの女の子。この子は“赤”だ。一刻も早く処置をしなければ間に合わない。

「痛いよお、はやく助けて……」
「大丈夫、大丈夫だからね」

 声掛けを続けながら頭の中で治療方針を組み立てていく。大丈夫だ。予断は許さないが、この状態であればこの場で処置をして搬送まで繋げられるだろう。
────袋から取り出したメスを手に取った時、世界が揺れる感覚がした。

「な、何……!?」
、一時退避だ! 近くでまた天井の崩落があった。ここも危険だ!」

 指導医の声が遠くに聞こえる。そうだ。退避。でないと自分も崩落に巻き込まれる危険性がある。二次災害は絶対にあってはならない。早く。退避────

「おい、!」

 地面が揺れている。また違うところでも崩落があったのだろう。今すぐ逃げないといけないことは頭では分かっていた。

!!」
「おねえ…ちゃん、助け……て」

 指導医の怒声を無視しては目の前の女の子の治療を続けた。これこそが、が指導医に適正が無いと言われた理由だった。には“切り捨てる”ということが、どうしてもできなかったのだ。

っ!!!」
先生……!」

 指導医と看護師の声が轟音の中に消えていく。
 世界が終わる音ってこういうことなのかな、とは暢気に思う。辺りは瞬く間に暗闇に覆われていった。


***


 冷たい雫がの額を打った。

「うぅ……」

 身体のそこかしこが痛む。手に触れる感触はざらついたアスファルトではなく湿った土。
 は何とか上体を起こして周囲を見回した。

「たしか天井が崩落して、それから……」

 は崩落した天井の、その真下にいた。しかし見た限りではどこにも怪我を負ったところがない。いや、別に怪我したいわけではないけれど。あれに巻き込まれて無事でいられるはずがないだろうに────

「だめだ、頭が上手く働いてない。冷静になれ、冷静に」

 は意識して深く息を吸い込んだ。ゆっくりと息を吐き出しながら、もう一度、辺りを見回す。

 自分が怪我をしていないのは良いとして、周囲に人の気配が全くないことが気になった。あの時、負傷者は勿論のこと、消防や救急の隊員、警察、マスコミの取材ヘリやらで周囲はけたたましい程の喧騒で溢れていた。今は物音一つ聞こえない。世界にただ一人取り残されてしまったような静寂に不安が募った。
────やっぱり私は死んでいて、此処は死後の世界なんだろうか。

 恐る恐る立ち上がったはある違和感に身を震わせた。
 やけに視界が低いのだ。
 足元を見下ろすと見覚えのない履物がの足を包んでいた。しかもやたらと小さい。小学校に上がるか上がらないかくらいの、子供の足だ。

「嘘、手も小さい。というより全身が縮んでる……?」

 発する声まで幼い子供のものに変わっている。
 一番に頭に浮かんだのは、平成のシャーロックホームズを自称する某小学生のことだった。しかし、は怪しい闇取引を盗み見た覚えはないし、未完成の毒薬を飲まされた覚えもない。

 夢、というのがが出した結論だった。
 夢ならばこの状況を楽しもうと思い、はゆっくりと歩き始めた。靴を通して伝わってくる、踏み慣らされていないふわふわとした地面の感触。湿り気を帯びた草木や土の匂い。全てがリアルで、気味が悪かった。

「ひっ……!?」

 突然、背後から物音がした。思わず声が出てしまう。
 冷静に。冷静に。そう言い聞かせながらも心臓は早鐘のように鳴り続けていた。
 熊とか猪だったらどうしよう。直前まで持っていた筈のメスも医療バッグもどこかに消えてしまっている。今のは完全に丸腰の状態だ。

「いや、そもそもメスがあったらそれで熊と戦うの? 無理だわ。普通に即死だわ」

 焦り過ぎて変な笑いがこみ上げてくる。
 ははは、と乾いた笑いを漏らしながらはこれから襲い来るだろう衝撃に覚悟を決めた。

「ん……あれ……?」

 しかし一向に獣が襲い掛かってくる気配はない。
 それどころか物音一つしなくなって、再び心細さがむくむくと湧き上がってくる。
 は意を決して、物音がした方へと足を向けた。

「……女の子?」

 そこにいたのは十歳前後の少女だった。
 
 は反射的に少女の状態を見極める。
————足の骨が折れている。それ以外に大きな外傷はなく、脈も安定していて命に別状はなさそうだった。

 適当にそこらに落ちていた枝を添え木にして、はようやく一息ついた。

……ありがとう。手当してくれたんだね」
「え? どうして私の名前を知ってるの?」

 少女は酷く驚いた顔でを見た。青白い顔が更に血の気を失い、紙のように真っ白になっていく。

「な、ど、どうして? え? え?」
「何が? え、ちょっと、落ち着いて……」

 少女はまるで化け物を見るかのような目をに向けながら、足が折れ立ち上がれないにも拘わらず必死でから距離を取ろうとした。

「え、危ないよ!」

 運の悪いことに、少女のすぐ後ろには急な斜面が続いている。
 は少女を引き戻そうととっさに手を伸ばした。

「ひぃっ……!」

 予想外に強い力で手が払われる。は上半身が宙に浮く嫌な感覚に息をのんだ。
————地面を掴もうと伸ばした手も、踏みとどまろうと込めた力も、何もかもが染みついた感覚とは異なっている。
 あっけなくバランスを崩したは、全身を打つ痛みにもなすすべなく険しい山肌を転がり落ちていったのだった。


***


や……」
「ん……」

 まどろみの中で自分の名を呼ばれ、の意識は次第に浮上していく。
 ゆるゆると瞼を上げたの目に一番に映ったのは、見覚えのない老婆の顔だった。

「良かった。起きたかい」
「だ、誰……?」

 老婆は表情の読み取りづらい顔を少し歪ませた。
 まずったな、とは思った。名前を呼びながら起こそうとする人間など、どう考えたって元からの顔見知りに違いない。それを『だ、誰……?』って言うなんて、すわ記憶喪失か!といった面倒な展開になること待ったなしだ。

「あ、ご、ごめんなさい。あの……」
「————あんた、しゃべれるようになったんだねえ!!!」

 老婆はこちらが引くくらいの剣幕で詰め寄ってきた。
 話が見えない。今のは手足の大きさからして五、六歳といったところだ。この老婆の驚きようからすると、この身体の自分は今まで一度も発話したことがなかったのだろうか。

「あの、済みません。山で頭を打ったのか、記憶が混乱していて……此処はどこなのか、どうして私は此処にいるのか教えていただけませんか」
「なんと……なんとこうも流暢に話すとは。なんと……」

 老婆も混乱していたがも混乱している。まともな話もできずに二人であわあわするばかりだ。
————結局、は騒ぎ声を聞きつけてきた男から懇切丁寧な説明を受け、ようやく事の次第を理解することができたのだった。

 ここは“徐”という国。は長老と呼ばれる徐の国主の孫娘で、生まれてから今日に至るまで一度も声を発したことがなかった。長老は孫娘の病を治せやしないかと国唯一の薬師であるこの老婆にを預けていたらしい。山で足の骨を折ったあの少女は老婆の弟子で、三日前にと一緒に山へ薬草を採りに行ったところ、獣の鳴き声に驚いて足を踏み外してしまったのだとか。
 少女は命に別状なく、骨も上手く接ぐことができたという話だ。

 男の説明を一通り聞いて、は確信した。
————これは、夢なんかじゃない、現実なのだ。