『ねえ、姉上。どうして姉上だけが逃げたの?』
『あなたに力があれば、城も落ちずに済んだかもしれないのに』
『何の為に飛天の剣を教えたと思っている』
『姫さん、上様の為に二心なく働くって。そう言ってたよな?』
『貴方の事、仲間だと思っていたのに』
『、早く戻ってこい。一緒に戦おう』
浮かんでは消える幻がを苛んだ。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……
罪悪感で胸の中を引っ掻き回されるように苦しかった。
「何としても元の時代に戻る! 乱丸達と一緒に戦う!」
────だから、許して。
思念の渦に飲み込まれそうになりながら、は天に向かって咆哮した。
浅葱色の誓 い
はっと、目を開いたは辺りを見回した。
視界は未だにぐらぐらと揺れて定まらない。軋んでいるのは身体なのか、心なのか────
「……私は……気を失っていたのか」
「あ、やっと起きたの。いきなり倒れるからびっくりしたよー」
そう言って永倉は手をの頭にのせた。そのまま強く頭を掻き撫でられて、結っていた髪が乱れてしまう。
抗議のために口を開きかけたは、ふとよぎった嫌な感覚に口をつぐんだ。
「ゲ…ホッ! ゴフッ……コホッ、コフッ…」
耳を澄ますと、誰かが咳き込む微かな音が聞こえた。
言いようのない嫌な予感に、は引き寄せられるように駈け出した。瓦礫と死体が散乱する暗闇の中を、音を頼りに突き進む。
途中で永倉が咎めるように叫んだが、の耳には届いていなかった。
「……沖田さん」
咳の主は沖田だった。
不思議とは驚かなかった。これと同じものを、以前も沖田がしていた覚えがあったのだ。
沖田は吉田稔麿に刀すらも奪われ、具足の胴を踏み抜かれている。まさしく窮地と言っていい。
『ほら、今なら彼を殺すことも容易いよ』
『迷うな、』
沖田から奪った刀を、吉田が振り上げる。
それに呼応するように、も沖田へと狙いを定めた。
***
「っ……!」
思考が指先まで届くよりも先に、は吉田と沖田の間に体を滑り込ませていた。
眼前に迫る刃を咄嗟に鉄鞘で受け止める。
「、さん……?」
鞘を伝った重い衝撃が全身の骨を震わせる。そこでようやく、は自分が取った行動の意味に気が付いた。
────思考が戻ってくると同時に、再び迷いが湧き上がる。
『駄目じゃないか、。吉田稔麿を助けないと。“扉”が開かないよ?』
でも、このままじゃ沖田さんが殺されてしまう。
『彼は関係ないだろう。お前は私達と一緒に来ると決めたのではなかったか』
そう、私は決めたよ。だけど。
僅かな逡巡を、吉田が見逃す筈もなかった。
深手を負った身体のどこからここまでの力が湧いてくるのか。吉田の斬撃は受け止めた鉄鞘の半ばまで達し、そしてさらに押し切ろうと吉田は力を込めてくる。
「っう……」
は懸命に押し返そうとするが、まるで岩を相手にしているような重さだった。踏ん張ろうとするほど、頭の中を突き刺すような痛みが襲い、腹の傷からは血と共に力が抜け落ちていく。
「、っつ…さん、はやくっ逃げ、ッゲホ…なさい…」
沖田が漏らす苦し気な呼吸音に、振り返らなくても彼の状態が悪いことはすぐに分かった。
「……嫌、だ。私は……私は、もう……逃げるのは、嫌…だ」
何のためにこれまで鍛錬を積んできたのだと、は押し負けそうになる自分を奮い立たせた。
「大切な人すら守れない、そんな弱い自分は……っ嫌なんだ!」
あらん限りの力を振り絞り、少しずつ吉田の斬撃を押し返していく。
────ふ、と吉田の力が僅かに弱まった。
理由は分からない。しかしこの機を逃すまいとは更に力を込めた。
「ぐ……う!」
吉田は先程までの勢いが嘘のように、足をふらつかせて後ろに倒れこむ。
は全身に纏わりついていた殺気からようやく解放され、肩で息をしながら周囲を見回した。吉田の意識は倒れた襖の奥へと向けられている。
彼の視線の先には、あの幼い少年の姿があった。
どうやら吉田の攻撃が緩んだのは、彼が襖ごと吉田の足を突き刺したからのようだった。
「……鉄之助君……どうして」
どうして此処に来たんだ、とは怒りと不安とが入り混じった表情で鉄之助を見た。
彼は長州派の志士に両親を殺されたという。
仇を討ちに来たのか、とは鉄之助を問いただそうとした。しかし彼が浮かべる表情の意味を掴みかねて、それ以上言葉にすることはできなかった。
「……俺、ずっと勘違いしてました」
鉄之助が倒れていた沖田を抱き上げた。
「俺が、強くなりたかったのは……殺すためじゃなくて」
鉄之助は、涙で声を詰まらせながら必死で伝えようと言葉を続ける。
「……俺も、お前と一緒だった」
鉄之助と沖田の背後で吉田が再び立ち上がっていた。深手を負って立っているのもやっとの状態であるはずなのに、吉田は逃げようなどと露ほども思っていないようだった。
にももう、迷いは無かった。
転がる死体から刀を抜き取り、吉田の前に立ちふさがる。
「邪魔をするな」
「もう、逃げないと決めたんだ」
正直なところ、自身も立っているだけで精一杯だった。それでも盾になるくらいの力は残っている筈だ。
抜刀の構えを取り、目の前の男を真っ直ぐに見据えた。
「、俺にやらせてくれ」
背後で鉄之助が刀を抜く気配がした。
「駄目だ」
は吉田を見据えたまま、固い声音で答える。
「」
「駄目だ。お前が手を汚すことはない」
わざわざ“修羅の道”に堕ちる必要は無いのだ。あの苦しみを、この幼い少年に味あわせたくない。
「!」
「さん、鉄君に任せてあげてください」
押し問答に焦燥を滲ませる鉄之助の後に、冷静な口調で沖田が続いた。
「沖田さん、何考えてんですか!? わざわざこの子に戦わせなくたって私が────」
は瞬間的に湧き上がった怒りに気を取られて沖田達の方を振り向いた。しかしそれまで気力だけで何とか踏ん張っていた状態であったために、集中を切らしたところで態勢を保つことができなくなってしまった。
「大丈夫ですか!? さん!」
均衡を失ったの身体はぐらりと傾ぎ、そのまま沖田の上に倒れこんだ。
「す、すみません!」
沖田はあばらを折っているかもしれないのだ。すぐさまは飛びのこうと力を込めた。しかしそれよりも強い力で沖田に抱きすくめられてしまい、全く身動きが取れなくなった。
「沖田さん……?」
「……ねえさん。鉄君ならきっと大丈夫です。彼を信じてあげて」
「だけど……」
顔を沖田の胸板に押し当てられているせいで、には鉄之助がどういう状況になっているのかが分からなかった。
刀がぶつかり合う激しい戦闘の音が聞こえる。
建具が破壊される音、時折両者の苦し気な叫び声も届く。
「俺がずっと……ずっと、殺したいほど憎かったのは……何も出来ない俺自身だったんだ!」
────ああ。彼も同じ悔しさを、ずっと抱えていたんだ。
***
ひときわ大きな叫び声が闇夜に響いた。
あれは吉田のもの。ということは────
沖田の力が緩められた隙に、声のした裏庭へと駈け出す。
そうして飛び込んできた目の前の光景に、は声を震わせた。
「鉄之助君!」
利き腕を失った吉田が、なおも口に刃を咥えて鉄之助に襲い掛かっていた。
助けにいくべきか一瞬迷ったの横を、刀を抜いた沖田が走り抜けていく。
眼前に浅葱色の羽織がひらめく。咄嗟に止めようと伸ばしかけた手を、は下ろした。
────吉田稔麿を池田屋事変で死なせないこと。
『それで、お前は良いんだな?』
乱丸の声がした。それが咎める声音ではないように感じたのは、の都合のいい解釈だろうか。
次の瞬間、吉田稔麿の首は沖田の手によって刈り取られていた。