首魁吉田稔麿の死をもって池田屋事変は終結した。
 別動隊であった土方達も合流し、逃げ遅れていた浪士達を捕縛していく。そうして慌ただしく池田屋内が検められていく様を、は壁に背を預けてぼんやりと眺めていた。


がため



「……終わりましたね」
 隣に沖田が腰を下ろして感慨深げに呟く。
「そう、ですね」
 はぎゅっと目をつぶった。
 心中は複雑だった。吉田稔麿は死に、が乱丸達の下に戻る道は断たれてしまった。本当にこれで良かったのかと、未だに悩んでいる自分に嫌気がする。
 考えても無駄だ、と頭を振って息を吐く。
さん、あなたは……」
 横目に沖田の視線を感じた。
 沖田は何か言いたげな表情をしているが、その先の言葉は続かない。
 は意を決して大きく息を吸い込んだ。
「沖田さんに、伝えたいことがあるんです」
 絞り出した声は少し震えていた。まとまっていない考えを口に出すのは躊躇われたが、それでも沖田に聞いてほしいと思った。
 は沖田の隊服を掴み、彼の顔を覗き込む。
「……はい、何でしょう。さん」
 沖田は少し驚いた顔を見せた後、目尻を下げての目を見返した。

「私は……──」
 突然、沖田が顔を歪めて苦し気に背を丸めた。何か必死で吐き出すように咳を繰り返すが、一向に収まる様子はない。
「沖田さん……!」
 は頭から冷水を浴びせられたような心地がした。息が詰まる。恐怖に身体が固まって、何もすることができない。
「────総司っ!」
 土方の切迫した声が聞こえた。しばらくして血相を変えた土方が、達が居る奥の座敷へと上がってきた。
「ケホっ…土方さ……」
 沖田の隣にいたは、沖田が土方の姿が見えた瞬間に一瞬息を止めたのが分かった。どうにかして咳を押し殺そうとしているようだった。土方に向けられた沖田の顔は、満面の笑顔だ。
「総司! お前まさか血を……っ!」
「あはは、土方さんスゴイ顔ー。違いますよぉ。恥ずかしい話ですけど、ちょっとアバラをやっちゃったかもしれなくって。ねえ、さん」
 そう言って向けられた視線には、有無を言わせない圧が込められていた。
「……確かに、沖田さんは……吉田稔麿と戦った時に胴の辺りを強く踏みつけられていました」
「へへ。そういうことですよー土方さん」
 にはよく分からなかったが、土方は“何か”を酷く恐れていた。そして沖田は無理を押してまで明るく振る舞い、その“何か”を否定しようとしていた。
「沖田さん……」
「違いますよー、二人とも心配しょうだなあ。ふふふ」
 沖田が浮かべる笑顔に漠然とした不安が湧き上がったが、その理由は自身にも分からなかった。


***


 土方が飲ませた薬で沖田の呼吸も次第に落ち着いていった。
 土方は沖田に肩を貸して立ち上がらせる。
「もう大丈夫ですよ、土方さん」
「ん、ああ……よし、皆を正面に集めてくれ」
 咳はもう止まっていた。沖田は土方から離れようとしたが、土方はそれでも心配なのか、沖田の肩に手を添えたままで隊士に指示を出している。池田屋内の検分もあらかた終わったようで、これから場所を移動するのだろう。

「おい、立てるか?」
 立ち上がろうとしないを鉄之助が目ざとく見とがめた。
 手を差し伸べてきた鉄之助に対して、はへらりと笑って見せる。
「んー? 私は大丈夫だよ」
「だったら、さっさと一緒に帰ろうぜ。置いてかれちまうぞ」
「そうだな……あれ、鉄之助君。刀はどうした?」
 少しわざとらしかったかもしれない。それでも鉄之助の気を逸らせることには成功し、鉄之助は慌てて裏庭へと刀を回収しに走っていった。
「あー……疲れた……」
 は貼り付けていた笑顔を落として、息を吐きだした。
 身体が重い。
 手足の感覚はもうほとんど無かった。頭の中も痺れていて、上手く働かない────

「おい、何しとんねん」
 ぼんやりと、咎めるような声が聞こえた。
 顔を上げて確かめる力も、声を出す気力も、には残っていなかった。
 反応を見せないに対して、声の主はさらに続ける。
「怪我人のくせに出しゃばりおって。ホンマ、何考えとんや」
 この声は山崎丞か、と鈍った頭が答えを出した。
 少しして、乱暴な手がの頭を掴む。俯いていたは無理矢理に顔を上げさせられた。
 その先にあった山崎の顔を見て、はこみ上げてきた笑いを我慢できなかった。
「ふ、ふふっ……」
「なに笑とんねん」
────だって、そんなに真剣な顔してさあ。
 口に出せば必ず怒るだろうと思ったから言わなかったが、それはそれで山崎を怒らせたらしい。
 青筋を立てた山崎は、乱雑に懐から小さな巾着を取り出した。
「さっさと飲め」
「……何、それ」
 山崎は巾着から一粒の丸薬を取り出した。
「あのくノ一が持っとった。屯所で寝とる思うてわざわざ屯所まで走っていったったのに、どこぞのアホが勝手に抜け出しとったせいで二度手間食ったわ」
「ごめん」
 山崎の剣幕に押されたは、素直に謝った。
「ええから。はよ飲め」
「……これは、薬?」
 重い腕を何とか上げて、差し出された黒い丸薬を受け取る。
「知らん。毒かもしれへんな」
「はあ……?」
 あっけらかんと言い放った山崎に、は驚きで目を瞬かせた。
 こいつ、人に毒を飲ませようとしているのか?
 流石に得体の知れない物を飲むのは躊躇われて、はその黒くて小さな玉を意味もなく掌で転がした。
「何うだうだ迷とんねん。お前が食らった毒はもう全身回っとっていつ死んでもおかしないんや。遅かれ早かれどうせ死ぬんやったら、それ飲んで今死んでも別にええやろ」
「ええ……」
 滅茶苦茶なことを言われている、とぼやけた思考の中では思った。
「山崎さんもさんもどうしたんですか。みんなもう出ちゃいますよー」
 が究極の選択を迫られているところに、間の抜けた声が聞こえた。どうやら沖田が戻ってきたようだった。
「何ぐずぐずしてんだ」と土方が不満げに唸る。
 山崎が事の次第を二人に説明する間、は手の上の薬か毒か分からない物体をどうすべきか考えあぐねていた。
「……なんだ、そういうことですか」
 山崎の説明を聞いた沖田はあっけらかんと言った。そうしての方に近づいてきたかと思ったら、丸薬はいつの間にか沖田の手の中にあった。
「ちょっ、沖田さん……」
 が抗議の声を上げようとしたところで、沖田は素早くそれを自らの口に含んでいた。
「おい、総司っ! 何やってんだ、吐き出せっ!」
 土方が必死に制止したが間に合わなかった。ごくりと沖田の喉が上下する。その場にいた全員が、沖田の突然の行動に言葉を失っていた。
「────うわ、これかなり苦いですよお。でも、とりあえずは即行性の毒ではなさそうですし、さんも飲んでみませんか?」
 毒だったらどうするつもりだったんだと、この場の全員が思ったことだろう。こともなげに言う沖田に対して怒る気力すら、には残っていなかった。
 複雑な表情を浮かべながら山崎がもう一度丸薬を差し出してくる。は無言でそれを受け取った。こうなったら腹をくくるしかないだろう。
 口に含んで一気に飲み下す。舌の上に微かな苦みが残った。


***


「……頃合いだ。屯所に戻るぞ!」
 徐々に視界が明瞭になっていくのが分かった。手足のしびれもなくなり、少しずつ本来の感覚が戻ってくる。
 どうやら気を失っていたらしい。目に差し込んでくる光の強さから既に夜が明けていることが分かった。
「お、チャン。良かったネ。ちょうどこれから屯所に戻るところだよ」
 視界のゆがみが完全になくなったところで、は周囲を見渡した。の顔を覗き込んでいる永倉の後ろでは、隊士達が慌ただしく帰陣の支度をしているようだった。
 続いては自身の状態を確認した。の身体には、いつの間にか浅葱色の隊服が掛けられていた。本来の色が分からなくなるくらいに血に染まった隊服は、恐らく沖田の物だろう。
 が小首をかしげつつそれをめくってみると、沖田から拝借した着物にはくっきりと血の跡が残ってしまっていた。吉田稔麿と戦った際に開いてしまった腹の傷痕には、再び丁寧に包帯が巻かれている。

 傷痕に手を当てて、は自身の記憶をたどるように目を伏せた。そして徐々に蘇ってくるかつての自分の行動に、の表情は次第に強張っていく。
「……あー、あー……永倉さん。すみません……あまりはっきりとは覚えていないんですけど、皆さんにはかなりご迷惑をおかけしてしまったようで……」
「はは、思い出しちゃったかー。チャンがあんなにお転婆サンだったとは思わなかったヨ」
「うぅ……、面目次第も無いです……」
 嬉々として詰ってくる永倉に対して、は頭を抱えて膝の間に顔をうずめた。毒に侵されていた間の記憶は薄衣を隔てたように曖昧ではっきりとしないのだが、少なくとも自分は、沖田を殺そうとして、止めてきた永倉達も殺そうとして、果てに切腹まがいのことまでした筈だ。
 思い出せば思い出す程、恥ずかしさと情けなさが渦巻いて、はこのまま消え行ってしまいたい気分になった。
「おいおい、新八ィ。あんま怪我人を苛めてやんなよ!」
「そうだぞ! 新八っつぁん。女の子苛めんのはよくないぞー」
 原田や藤堂までやってきて、ますますは居たたまれなくなった。
「此度の失態、真に面目次第も御座いませぬ。如何な裁きも甘んじて受ける覚悟に御座います」
 は姿勢を正して、頭が床にめり込む勢いで頭を下げた。
「かっったっ! ちゃん、お堅すぎるでしょ!」
「然れども……」
 の口上がツボに入ったのか藤堂は腹を抱えて笑い始める。
「ぶはは! お前、戦国武将かよ」
「原田さん……」
 原田に言われて、ははっと顔を上げた。目の前に立つ三人の表情は、決してを責めるものではない。
「あの程度、俺達にとっちゃなんでもナイヨ」
「そーだそーだ。それよりさっさと屯所に戻んぞ! 俺ぁ腹が減って仕方ねえんだ」
 原田にバシンと背中を叩かれた。痺れるくらいのその強さに目を瞬かせながら、は強張っていた肩から力が抜けていくのが分かった。
「そーゆーこと。ちゃん、一人で歩けるか?」
 そう言って藤堂が手を差し伸べてきた。
「はい、私は。藤堂さんこそ、吉田に額を斬られていましたが、大事ありませんか?」
 は手を取って立ち上がりながら、藤堂の額に巻かれた包帯を見た。
 藤堂は一瞬呆けたあとにニヤリと口角を上げる。
ちゃんが助けてくれたから大したことないぜ!」
「平助と新八は俺が担いで帰るから、心配すんな!」
 得意げに腰に手を当てていた藤堂の身体を、原田は軽々と持ち上げる。さらには反対の手で永倉まで担いでしまうのだから、およそ尋常ではない膂力である。
 複雑そうな表情で担がれている永倉と藤堂の姿に、笑いがこみ上げてきて腹の傷を疼かせる。は目尻に涙を滲ませながら、屯所へと向かう隊列の後ろに加わった。


***


 新選組の帰陣の列を、京の人々が興味深げに眺めている。そこにはいつも向けられるような侮蔑の眼差しはない。

「ん……?」
 異質な気配を感じて雑踏の中を視線で追った。
────白い、兎耳。
「おい、比古!」
 はすぐさま隊列を外れて“兎”が消えた路地へと駈け出した。
「待てよっ……!」
 腹の傷のせいで走る速さはたかが知れていたが、兎はそんなの状態が分かっているのか絶妙な速さで路地を縦に横にと駆けて行く。そうして辿り着いた、その場所は。
「ここは……」
「はい、本能寺ですよ♡」
 言葉を失っているをよそに、兎はさらに続ける。
「どうして、吉田利麿を助けなかったんですか? せっかく元の場所に戻るチャンスでしたのに」
 兎の言葉に、の心臓がどくりと跳ね上がった。
 存在を確かめるように、隊服の袷をぎゅっと握りしめる。
「……君がため、だ」
「紀友則ですか? フフフ、『君』とは誰のことか気になりますねえ♡」
 が絞り出した言葉を聞いて、兎は前歯をのぞかせてニタリと笑った。
「……誰だっていいだろう。それより貴方は結局、何者なんだ」
「それこそ誰だっていいじゃないですか♡ ……本能寺の変、アナタぐらい強い人ならあるいは、と思っていたんですがネ。次は趣向を変えて平成のJKをスカウトすることにしますよ☆」
────この訳の分からない言動、本当に上様そっくりだ。
「では、これにて私は失礼しマス。もうお邪魔することはありませんから、どうぞ“あの方”とお愉しみを♡」

 好き放題に言うだけ言って、兎は消えた。


***


 もと来た道を戻ると、既に新選組の行列はなくなっていた。
 は一人、屯所へと向かった。
 しばらくして壬生村へと着いたは、屯所の前で仁王立ちする沖田を見つけて足を止めた。
「何、やってたんですか」
 その第一声で沖田が怒っているのが伝わってくる。決まりが悪くなったは、うろうろと視線を彷徨わせた。
「……疲れたので、途中で休んでいただけですよ」
「はあ……さん、どうして池田屋に来たんです? 浪士を斬る理由は無いと、以前言われていましたよね」
 ため息交じりに吐き出された言葉に、はぐっと押し黙った。
 行き場のない視線を足元に落とすと、居心地の悪い沈黙がその場に広がった。
さん……」
 答えを促すように、沖田が名前を呼んだ。
 はぎゅっと目をつぶり、しばらくして沖田を正面から見返した。一世一代の告白をするような思いに、絞り出した声は少し震えていた。
「……『君がため』です」
「君がため? どういう意味ですか?」
 沖田は大きな瞳をさらに丸くしていた。彼の表情からすると、の言った意味がまるっきり分かっていないようだった。
「……絶対に。絶っ対に、教えません!」
 恥ずかしさでの顔は真っ赤になっていた。
「とにかく。これからは隊士の一人として勤めることにしました。局長にも土方副長にも既に許しは頂いていますので」
 は努めて淡々と沖田に話した。胸がじくりじくりと痛んでいることを、沖田には気づかれたくなかった。
「……分かりました。さんが一度決めたら梃子でも動かないのは、今回のことでようく理解しました」
 の言葉に、沖田の眉間には深い皺が刻まれていた。沖田は渋面を続けながら大きく息を吐く。
「ただし、入隊するなら一番隊にしてくださいね。さんは、放っておくと何をしでかすか分かりませんから。私の目が届くところにいないと」
「えぇ……」
 沖田の発言に思わず不満の声が漏れた。
「何ですか!そんなあからさまに嫌そうな顔しなくたって良いでしょう!」
「稽古にもかかわらず見境なく部下を痛めつける上司は嫌ですよ。ええ、そうです。もっと穏やかな……斎藤さんが隊長をされている三番隊が希望だったんですが」
 実のところ、一番隊に入ることは近藤・土方との間で既に決まっている。冗談のつもりで言ったのだが、真面目に受け取られてしまって段々とも意地になってきていた。
 しかし、沖田の方も折れるつもりはないようだった。
「絶対にこれは譲りませんよ!絶対ですからね!」
「沖田さん、そこまで必死にならなくても……」
 いつもの彼からすると、不自然なくらいの頑なさだった。
「……さん」
 沖田の目がふっと真剣なものに変わった。
「私は。もう、死にかけているあなたを見たくない」
 沖田の真剣な眼差しを正面から受け止めてしまった。
 顔が熱い。いったい自分は、今どんな顔をしているのだろう。
 沖田との距離が徐々に縮まっていく。血の臭い。そして痛いくらいに力強い両腕が、を包む。
 彼の体温と鼓動が肌を通して伝わってくる。
────私は、ここに居ていいんだ。
 がずっと感じていた不安が、彼の腕の中に溶けていく。
「私だって、貴方の死に掛けてるところなんか見たくありません」
 の言葉に、沖田が僅かに肩を揺らした。
「じゃあ、死ぬときはさんの居ないところにしないといけませんね」
「はあ!?」
 は思わず沖田から距離を取った。
 眉を吊り上げて沖田の顔を見れば、彼はいたずらっ子のように笑っていた。
「変な冗談、やめて下さい」
「……さあ、さん。そろそろ部屋に戻りましょう! 抜け出してることがバレたら土方さんに怒られちゃいますから!」
 の追及から逃げるように、沖田はさっと視線を外して足を屋敷の中へと向けた。も渋々ながらそれに続く。
「沖田さん、今思いっきり話そらしましたよね」
「えー? 何の事ですかー?」
 不満を隠さずぶつけてみたが暖簾に腕押し。糠に釘。
 柳のようにゆらゆらとつかみどころのない背中を見ながら、は苦笑混じりのため息を吐いた。


***


「ねえ結局、『君がため』って何なんですか?」
「しつこいですよ! ぜったいに教えませんから!」
 ここしばらくの間、似た様なやり取りが繰り返されていた。沖田という男は、が思っていたよりもかなり強情な性格のようだ。
 いつものように突っぱねられた沖田は、少し拗ねたように大股で歩いていく。

「────貴方と一緒に生きたいって、思ったんですよ」
 は小さく呟いた。目の前を歩く彼には聞こえないように、そっと。


 君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな
(君のためなら惜しくはなかったこの命でさえ、貴方と共に生きる為に、今はできるだけ長くありたいと思うようになりました)






誰が為に我は行く