何かが打ちあがる音に、鉄之助は空を見上げた。
 鮮やかな光が闇夜を照らす瞬間だった。
 それを見たとき、鉄之助は確信した。あそこに、丞達が居る。

 あそこに行けば、自分は戦いに加わることになる。あそこに行けば、両親の仇を取れるかもしれない。仇に会ったとき、自分は、殺すことができるのだろうか────
 まだ迷いは残ったままだ。副長が丞に託したという刀はずしりと重たい。走ると刀に重心を奪われ、何度も転びそうになる。それでも感情に突き動かされるまま、鉄之助は光が照らした方向へと走っていった。


選択の代



 鉄之助より一足早く池田屋へと着いたは、辺りのただならない空気に息を飲んだ。池田屋の周りには人垣ができている。やはり、中で戦闘が行われているらしい。
「おい、中はどうなっている?」
 は池田屋から逃げ出してきた浪士を捕まえ、中の状況を尋ねた。その男は酷く混乱していたのか、新選組の羽織を纏っていないを仲間と誤信したようで、戦闘の悲惨さを切々と訴えてくる。
「助けてくれ! まだ中に仲間が……先生も、吉田先生が我らを助ける為に戻ってこられて……」
「……“吉田稔麿”は、まだ中に居るんだな?」
 敬称を付けなかったに男は怪訝な表情を見せたが、男が引き留めるよりも前には池田屋へと駆け込んでいった。

 戦闘が始まってからしばらく経つのか、池田屋の中は濃密な血臭で満ちていた。天井にまで飛散した血の跡が、戦闘の激しさを物語っている。
「げ……何でチャンが居んのサ」
 の闖入を最初に見つけたのは永倉だった。奥へと続く土間の半ばで、浪士の一人と相対している所であった。
「ちょ、永倉さん。後ろっ!」
 意識をに向ける永倉に対し、男が刀を振り上げていた。
 は慌てて永倉の下へと駆け寄ろうとした。しかし、が助太刀するよりも早く、永倉はこともなげに男の刀を受け止めた。
 しかし、おそらく今までの戦闘で刀にヒビが入っていたのだろう。斬撃を受け止めた衝撃で永倉の刀は真っ二つに折れてしまった。
「あちゃあ、折れちゃったか」
 半分になった刀を肩に置いて永倉は笑う。そのあっけらかんとした様子に男は激高した。
「舐めやがって……!」
 男は再度振りかぶったが、その刀が永倉に届くことはなかった。永倉は折れた刀を深く男の腹に突き刺す。トドメを刺された男はふらふらとの方へよろめいてきたが、二三歩進んだ所で糸が切れたようにバッタリと倒れた。
「……で、チャン。何でこんなとこまで来てんのさ」
「言えません」
「はあ? 何ソレ……アユ姉の件もあるし、総司の話もあったからせっかくキミを疑うのはよそうと思ってたのに。怪しさ満点じゃん」
 言葉こそ棘を含んでいるが、永倉の眼差しに敵意は見えなかった。はその真意をつかみ損ねたが、少なくとも今すぐ敵とみなされ斬られることはなさそうだった。
「あの、永倉さん。お聞きしたいことが」
「……さん?」
 ギシギシと踏板を鳴らし二階から沖田が下りてきた。
 は永倉への質問を忘れてその姿にあっけに取られた。永倉もかなり酷かったが沖田はそれ以上だった。元の人相が分からないくらいに、沖田は頭からつま先まで大量の血に塗れていた。
「沖田さん、それ大丈夫なんですか? 怪我とかしてます?」
「大丈夫ですよ。これは全て返り血ですから」
 沖田の動きに違和感はない。その言葉は本当なのだろう。安堵の気持ちからは小さく息を吐いた。
 不意に、沖田がの方へと歩いてきた。徐々に近づく距離に戸惑いを覚えながら、は目の前まで来た沖田の顔を探るように見返した。
「沖田さん……?」
「生きてる」
 何を当たり前のことを、と言いかけた。しかし考えてみれば、自分はあのくノ一にやられてからずっと気を失っていたのだった。もしかしたら、随分と心配をかけてしまったのかもしれない。
「生きてるんですよね」
「はい。生きていますよ」
 の返事に沖田の目が細められた。血塗れの手が体温を確かめるようにの頬を撫でたが、不思議と嫌な感じはしなかった。

「二人ともさァ、まだ任務は終わって────」
 突如、全身を強烈な殺気が襲った。それだけでも人を殺せそうな鋭さだ。はすぐさま抜刀の構えを取り、臨戦態勢に入る。
「吉田、稔麿……」
 永倉が唸るように吐き出したその男の名に、の心臓は跳ね上がった。
『吉田稔麿を池田屋事変で死なせないこと』
 兎が言っていた、元の時代に戻るための方法だ。しかし。
 彼は死ぬ気なのだ、とすぐに思い至った。全てを捨ててまで、彼は新選組を一人でも多く殺そうとしている。
────どうすれば、彼を助けられる?
 彼を殺そうとする者を己が斬ればいいのか。沖田や永倉達を。
 やれる、と頭はすぐに結論付けていた。永倉は手に傷を負っている様子だし、沖田も怪我こそないようだが何人もの肉を斬った刀は、その脂で鈍ら(なまくら)になっている筈だ。
────どうする。
 沖田も永倉も、吉田稔麿に全神経を向けている。今なら背後を取る事だってできる。
────どうする。
「……しいっ!!」
 盤上にいきなり飛び込んできたのは藤堂平助だった。藤堂は中庭から吉田の死角を狙ったが、吉田は難なくその攻撃を受け止める。そこには明確な力の差が表れていた。
「バカっ!……平助っ!」
 永倉が制止しようと声を張り上げる。
 しかし藤堂は怯むことなく吉田を追撃し、その槍を二分した。
「ははっ! ちったぁコレでっ、使い易くなったかなァ!?」
 皮肉にも藤堂の言葉通り、短くなった槍を吉田は機敏に使いこなし、すぐさまその穂先を藤堂へと向けようとしていた。
「平助!! 逃げろっ!!」
 いち早く察知した永倉が、悲鳴のような叫び声を上げた。

『父上。こんな曲芸まがいの技、いったい何処で使えるというのです?』
『まあ使える場は限られるだろうな。失敗すれば命とりにもなり得る。状況をよく見極めることだ』
『状況、ですか……』

────間に合わない!
 永倉が吉田に向かって走り出した瞬間には悟った。永倉の折れた刀では、届かない────
「平助ェエッ!」
 永倉の絶叫と同時に、は上体を強く捻った。
 その反動が頂点に達する瞬間に鍔を親指で弾き、鞘から刀身だけを吉田に向けて飛ばす。父に教えてもらった、“飛龍閃”という技だった。
 柄尻が吉田の掌に当たったのと、藤堂の額に槍先が達したのはほぼ同時のことだった。
「お前……」
「藤堂さん!」
 絶句する永倉の横を抜けて、は藤堂の下へと駆け寄った。
 飛龍閃によって吉田の攻撃を止めようとしたが、結局その軌道をずらすことしかできず、藤堂は額を斬られてしまった。
「これなら、何とかなるか」
 暗くてよくは見えないが、傷はそこまで深いものでは無さそうだった。
 気を失っている藤堂を永倉に預け、は吉田稔麿に相対した。
「何者だ」
 身体の芯まで凍り付くような、冷たい声だった。
 全身を黒い着物で包んだ男は、鋭い眼光でを睨め付ける。
「ううん、どう言えば良いものか」
 白々しい笑いを口端に留めながら、は掌中の鞘を、存在を確かめるように強く握った。
────今から吉田を説得することは難しいだろう。気絶させて大人しくさせた上で、沖田らを退ける方が良いか。
────どうする。
 手に汗が滲んできて、取り落としそうになった鞘をもう一度握りしめた。動悸がする。心臓がバクバクと暴れて、息が苦しい。

 顔を歪めたから、吉田はついと視線を外した。
 その先には、沖田がいる。
 暗黒に近い池田屋の中で、沖田の瞳だけが篝火のように明々と浮き上がっていた。
 ああ、駄目だ。止めないと。
 そう思うのに、身体は思う様に動かなかった。
 くノ一にやられた時と同じだ。頭に杭を打たれるような鋭い痛みと共に、頭の中に野分が現れたようにぐちゃぐちゃに思考が絡まっては四散して、何も考えることができない。
 抗うをあざ笑うかのように、次第に意識は暗闇の中へと塗りこめられていった。