、早く起きなさい」
 父上、まだいいじゃないですか。もう少し寝かせてくださいよ。
、早く起きろ」
 なんだ、乱丸。しつこいぞ。まだいいじゃないか。
、はよ起きんか」
 まだ、眠いんです。頭がぼうっとして。
 夢の中では懐かしい面々に会うことができた。辛い思い出の方が多かったのかもしれないが、それでもは、乱丸達と過ごす日々の中で確かに幸せを感じていたのだ。
 だから、まだ、起きたくない。
「いつまで寝ておるのだ、
「────上様!?」
 まどろんでいた意識が一気に覚醒する。
 急いで布団を跳ね飛ばしたは、すぐさまその横に正座をして井草が額に突き刺さるぐらいに頭を下げた。
「し、失礼致しました!」
「ぐっもーにん☆ やっと起きましたネ!」
────ぐっもおにん?
 いったい何を言われたのか。すぐには理解できなかったは、許しを得る前に思わず顔を上げてしまった。
 そして視界に入った“ソレ”の姿に、驚愕のあまり息をすることも、ましてや声を上げることなど出来るはずもなく、ただあんぐりと口を開け固まったのだった。
「もしもーし?生きてますかー?」
「……」
「あらら、死んじゃった?」
「……いや、生きている。……息は止まるかと思ったけど」
 は何とか息を取り戻し、やっとの思いで絞り出すように返事をした。
────いったいコイツは何だっていうんだ。
 目を細めて、注意深く“ソレ”を見る。
「……うさぎ?」
「ハイ、兎ですッ♡」
 の目の前には、『兎』が居た。野や山に居る、あの『兎』だ。もちろん、ただの『兎』だったならばもここまで驚かなかっただろう。
 だが目の前の『兎』は成人した男ぐらいの上背があり、しかもその首から下は南蛮渡来の服を着ていて、まるで人間の身体のようだった。
 この化け物の、なぜか“声だけ”は上様に似ている。
「貴方は……一体、何者?」
「ですから兎ですよ。そして、あなたが“元の時代”に戻る方法を教えてあげることができる、兎です☆」
「は……?」
 兎頭の語る荒唐無稽な話に、全く理解が追いつかない。
 今、コイツはなんて言ったんだ。
「私の言う通りにすれば、あなたは元の時代に戻ることが出来ますよ!」
「そんな! そんな、都合のいい話……だって、今まで。どんなに願っても何も変わらなかったのに」
 は声を震わせる。
────ずっと、帰りたかった。
「そりゃあ、願ってるだけでは何も起こりませんよー。何事も行動に移さないと!」
「じゃあ、何をすればいいんだ」
 既に得体の知れない兎への不信感は忘れていた。
 藁にもすがる思いでは兎を見上げた。

「簡単です! 歴史を変えればいいんですよッ♡」


が為に我は行く



「歴史を……?」
 は眉を寄せて兎を見た。何が何やらさっぱり分からなかった。
「まったく、鈍いですねえ」
 呆れたというふうに兎は肩をすぼめる。
「よーく思い出してください。あなたが此処に飛ばされた時、何が起きてましたか?」
 持って回った聞き方をしてくる兎に、眉根の皺はさらに深くなっていく。は“あの時”の事を苦々しい思いで吐き出した。
「……上様が謀反を起こされて、明智光秀に本能寺を襲撃された」
「そうです。あの日、織田信長の天下統一は目前にして阻まれました。“歴史が変わった”ときは“扉”が開きやすいんですよ。なので、もう一度歴史を変えるようなことをすれば、“扉”が開いて、元の場所に戻ることができる、ということです!」
 そう言って兎は身をかがめての目を覗き込んできた。兎特有の赤い目に、自分の迷いを見透かされているような気がした。
「迷ってる暇はないですよー。チャンスの神様には前髪しかないんですから!」
「そういう意味不明な発言、本当に上様そっくりだ……」
 信長から散々に振り回された日々を思い出して、はげっそりとした。
 の発言に、兎が薄気味の悪い笑みを浮かべる。特徴的な二本の前歯が覗いた。
「それで、歴史を変えるって……?」
「さて問題です! 今日は何年の何月何日でしょう?」
 また訳の分からないことを、と言いかけた言葉をは飲み込んだ。これ以上兎の話を遮るのは良くないだろう。
「……ずっと寝ていたから、分からない」
 そう言っては首を振った。自分が何日気を失っていたのかも分からなかった。
「ああ、そうでしたねえ。今日は元治元年六月五日。さあ、何の日か、分かりますか?」
「……知らない。いったい何なんだ、早く戻る方法を教えてくれないか?」
 回りくどい問答に、は徐々に苛立ちを露わにしていく。
「……全く、“相変わらず”の猪武者ですねえ。もう少し慎重さを覚えないと、早死にしちゃいますよ?」
 兎の顔に、幼子を教え諭すような微笑が浮かぶ。
 それがかつて信長から向けられたものと重なって、はすっかり毒気を抜かれてしまった。
「でも、意外ですねえ」
「何のことだ?」
「戻ってどうするんです? あの大軍に囲まれれば、いくらあなたでも生き残ることは難しいでしょうに」
 兎の言うことは尤もだった。あの場にが戻ったところで、できることはたかが知れているだろう。それでも。
「それでもいい。やっぱり、乱丸達を置いてはいけないんだ」
 自分に言い聞かせるように、は言葉に力を込めた。
 兎は何故か、ため息を吐いた。
「あなた、『池田屋』は知ってますか?」
「確か、長州藩邸の近くにある旅籠?」
「今日、そこが“歴史の舞台”になるんです。グッドタイミング! ちょうどこれから池田屋で戦闘が始まるみたいですよ♡ 今日の出来事のこと、未来では『池田屋事変』と呼ばれているんです。局長、近藤勇を筆頭にたった五人の新選組隊士で池田屋に集結していた長州派の浪士達を斬殺するんですよ」
 すごいですよねえ、と兎は続ける。
「そんなことが……ああ、いや」
 にわかには信じがたい話だ。それでも、現に自分の身に起きていること自体も、かつての自分であれば想像することだってできなかっただろう。
「覚悟は決まりましたか? あなたが戻る方法はただ一つ!『吉田稔麿を池田屋事変で死なせないこと』です♡ 今晩、沖田総司が彼を殺します。それを止めれば、きっと“扉”が開くはずですヨ」

 好きなことだけ言った兎は、の目の前で忽然と姿を消してしまった。


***


「いっぅ……」
 頭を突き刺されるような痛みが走った。
 体を起こせば、掛けられていた布団がずり落ちる。さっきまで起きていた筈なのに、何故自分は布団の中にいたのだろうか────
 痛いのは頭だけじゃなかった。腹もずくずくと疼くように痛む。袂を開いて見てみれば何故か包帯が巻かれていて、そこから血が滲み出していた。覚えのない傷には首を捻った。
 そこかしこが軋む身体を叱咤して立ち上がる。着替えは少し迷った末に沖田の着物を拝借した。
 静まり返った屯所の気配に違和感を覚えながら、次には刀を探した。部屋中をひっくり返したが、の愛刀は見つからない。
「この部屋にはなさそうだな……」
 ため息が漏れた。他の刀でも戦えるだろうが、やはり父から受け継いだ刀の方が手になじむ。
 ふと思い至って、は土方の居室に向かった。この部屋の主である沖田が刀を預けるとしたらきっと副長の筈だ。

「あった……」
 机上に置かれていた刀を抜いた。刀身に付いていた血のりは綺麗に拭き取られており、丁寧に手入れが施された形跡があった。沖田がやってくれたのだろうか。
「何を、している」
 向けられた固い声には振り返った。
「……山南副長」
君。その刀は何だい?」
 そう問われて、は慌てて抜き身のままだった刀を収める。誤魔化すように首の後ろを掻いて笑顔を作った。
「紛らわしい行動をして申し訳ありません。これは私の刀なんです。私が倒れていた間、土方副長が預かってくださっていたみたいで」
 言い訳がましい言葉の羅列は、自分でも上滑りしているのがよく分かった。その証拠に山南の目に浮かぶ疑念はますます深いものになっていく。
「それより一つお聞きしたいのですが。普段に比べて随分と隊士の皆さんが少ないように思います。皆さんは何処へ行かれたのですか?」
「……土方君達が君に教えていないのなら、私の口から言うつもりはないよ」
 池田屋の事について山南から詳しく聞きたかったのだが、間者か何かと疑われてしまっているようだ。これ以上問答を続けても、山南が口を開くことはないだろう。
「そうですか。であれば先を急ぎますので、失礼致します」
「待ちなさい」
 山南の横を抜けようとしたところで強く腕を掴まれた。
「君を行かせる訳にはいかない」
 そこには強い意志が籠っていた。山南の目は真っ直ぐにを射抜いている。
────だからこそ、は苛立った。
「……貴方には指図されたくない。何故、此処に残っているんですか? 貴方には戦える力があるのに。局長達は、今まさに命がけで戦っているんでしょう!?」
 腕を掴む力が、僅かに緩んだ。それを力任せに振り払うと、は刀を手に屯所を飛び出した。


***


「吉田稔麿を、池田屋事変で死なせないこと……」
 反芻したところで現実味は湧いてこない。“池田屋事変”という兎が言っていた話も心の底から信じることはできなかった。
────それでも、確実に何かが起きている。
 は池田屋に向かって、唯ひたすらに闇夜の中を駆けていった。