「乱丸は、人を殺したことはある?」

 は線引きしようとした。心配して手を伸ばしてくれた乱丸に対して、“人殺し”と、“そうでないもの”として。
「それは、無い。だが────」
 乱丸は眉間に何本も皺を寄せて沈黙した。
 最初の頃、こういう表情をするときの乱丸は、酷く怒っているのだと思っていた。今のは、それが自分を心配してのものだということには気づいている。気づいているけれど。
「人を殺したことが無い者には分からないよ。大丈夫、務めはちゃんと果たすから」
 の返答に、乱丸の顔はますます険しくなっていった。
「……大丈夫だって! ほら、今から宿居(とのい)なんだろう? 遅れてしまうよ」
 はそう言って笑って見せて、まだ納得していない様子の乱丸の背中をぐいぐいと押して門から押し出していく。
 そうして閉ざされた門の内側で、ひとつ、はため息を吐いた。


垂らされた



 それからのは、乱丸との距離を測りかねて何とも気まずい思いを抱えることになった。近づくことが怖くて、は自室に籠りがちになったが、それでも完全に一人きりになることも怖くて、乱丸から話しかけられれば表面的な会話には応じていた。
 幸いなことに、乱丸に付いて教えを乞うことはこの頃には殆どなくなっていて、それぞれに慌ただしく仕事をこなすうちに、もうすぐ一年が終わろうとしていた。


***


 天正七年十月、有岡での戦には呼ばれた。
 信長の小姓であるが単身で従軍していることに、軍中の兵達からは値踏みするような目が向けられていた。

「聞きましたぞ、殿。先だっての一揆制圧の折には一騎当千の目覚ましい戦いぶりであったとか。流石上様のお小姓に御座いますな!」
「とんでも御座いません。碌に武器を持ったこともない農民達が相手だったのです。どれだけ殺したとて、何の誉れになりましょう」
「ははは、謙遜がお上手で。一揆衆は侍を殺してこそ極楽往生に行けるなどと嘯く集団ですからな。命を惜しまぬ捨て身の者どもに勝つのは並大抵のことではないですぞ」
 男の調子からは、に取り入ろうとしているのが明け透けに伝わってくる。傍から見れば、は信長寵愛のお小姓ということなのだろう。
 しかしが信長の傍に控えたことは殆どなく、実際のところこうして遠国の戦場に駆り出されて各地を転々としていることの方が多かった。同じ“小姓”といっても、乱丸や松寿、虎松のような信長お気に入りの者達とは到底同列に語れるものではない。
 結局のところ、己は“外様”なのだと、敵方の娘であったのだと、思い知らされる。
「この有岡の城攻めも随分と長引いておりますからな。早く上様に勝利の知らせを上げたいものです。殿のお力、頼りにしておりますぞ」
「微力ながら、尽力致します」

 その場を辞して周囲に誰の姿も無いのを確認してから、ようやくは息を吐きだした。
────勘弁してくれよ。
 はああいう手合いが特に苦手だった。媚びへつらうような笑顔。その裏で何を考えているかなど、容易に想像がつく。
 ましてのことをよく思わぬ者が多いこの陣中で、衆目の下にあのような事を言われれば。ますますへの風当たりが強くなるのは目に見えていた。

『小姓として取り立てるなど、上様も随分と思い切ったことをなされたものだ。あの女、かの比古清十郎の娘なのだろう。寝所で襲われでもしたら如何なされるおつもりなのか』
『上様は新しいもの好きであらせられるからなあ。しかし、お小姓であれば安土の城で大人しくしておればいいものを……』
『まことその通りじゃ。どれほど強いのか知らんが、女が戦場に来ては士気が乱れようぞ』
『ははは、見目だけは良いからのう。百人をたった一人でなで斬りにする女なぞ、儂なら御免じゃが』
『それも眉唾ものでござろう。あの女も自分で言うとったが、所詮は百姓相手。誰でも斬れるわ』
 陣中のそこかしこでのことが噂されていた。嫌でもそれはの耳に入ってきていたが、捕まえて反論する気にはなれなかった。

!」 
「乱丸? ああ、そうか。城が落ちて、お小姓衆も派遣されたのだったか」
 の参戦から程なくして、有岡城は落ちた。
 荒木村重の謀反から始まり一年以上続いた戦であったが、既に村重は妻子らを置いて尼崎城に逃げ延びており、城主を失った城が織田軍の総攻撃を前に内側から崩れていくのは早かった。

 有岡城に残されていた者達は人質として捕らえられている。
 村重が尼崎城を明け渡して出頭すれば人質の命は助けることになっていたのだが、村重が応じることは無く、これから数百人に及ぶ人質の成敗が行われることになっていた。
「……、お前は総攻めにも参加したと聞いたが、怪我はしていないのか?」
「この通り、何の問題もないよ」
 はおどけて両手を広げて見せる。
 実際、総攻めにおいて怪我などはしていなかった。長期間の籠城、主君の逃亡によって城内の兵士達は心身共に弱り切っており、彼らを討ち取ることはにとって難しいことではなかった。
「そうか。しかし……」
 そこまで言って乱丸は語尾を濁らせた。
 しかし、なんだというのだろうか。
 続く言葉をはしばらく待っていたが、結局その続きを聞くことはできなかった。

────明朝、人質達の成敗が始まった。
 女子供の泣き叫ぶ声が空気を震わせる。
 を含む小姓達は女子供が銃殺されていく様をただ見つめていた。たまらず目を逸らす者もいたが、それでも風に乗って彼女達の慟哭が聞こえてくる。
「酷い……」
 松寿が思わず零した声は、轟く銃声によって掻き消えた。
 処刑場は荒木村重の立てこもる尼崎城からほど近い。処刑に火縄銃を用いているのは、処刑の音を村重に“聞かせる”ためなのだろう。しかし、火縄銃で処刑が行われることは稀だ。火縄銃自体が非常に高価なものであるし、扱いが難しく、余程使用に長けたものでなければ正確に狙った的に当てることは困難なのだ。
 現に、一度の銃撃で“死ぬことができた”者は少ない。ゆっくりと死に蝕まれる恐怖に女たちの叫び声はさらに凄惨なものとなっていく。引き攣るような叫び声に、引き金に掛けた男達の指は震え、三度に一度、肉を穿てばよい方であった。

 女達の姿が、城と共に命を絶った母の姿と重なった。
「────お願いがございます」
 女達の処刑役には願い出た。
 渋々と渡された火縄銃を構え、その先を磔にされた女に向ける。
 目の前にしてみれば、特に、何も感じなかった。
 引き金を引く手は自分のものではないようだった。
 凪いだ心で撃ち出した弾が狙いから外れる事は一度も無く、時を待たずして人質百人余りの処刑が終了した。


「おう、参ったか」
 京、妙覚寺に逗留する信長を訪ねたを、信長は気安げに迎え入れた。
 反して側近達の空気は緊張した。彼らからすればは今も敵将の娘なのだ。信長がに鷹揚であるのは、こうした側近への信頼もあるのだろう。
「遅くなり申し訳ございません」
「儂に会いたくなかったのであろう?」
 信長の声が低くなり、口元に不敵な笑みが浮かんだ。
 本気でを詰っている訳ではないのだろうが、実に心臓に悪い冗談だ。言葉を詰まらせたを見て、信長は目元を半月にして笑みを深めた。

「────もうすぐ人質達の成敗が始まるところだ」
 しばらくして、信長は能面のような無表情で南の空を見やった。
 その先の六条河原で、今度は荒木村重の妻子達の処刑が行われる。中にはと同じ年頃の──しかも孕み女だと聞いた──者もいる。十にも満たない幼子もいる。
「七松ではお前が全ての人質を成敗したそうだな。寸分違わず全員の眉間を撃ち抜いたと。比古家は火縄銃にも通じておったのか?」
 信長の声は冷たく硬かった。
「いえ。父比古清十郎は、刀以外を好みませんでした」
「では、どこで習うたのだ?」
「家臣達も父に倣い刀に長ずるものが多かったのですが、私は彼らのように力に頼った戦いはできませんでしたから。銃を扱えればいつか役に立つだろうと鍛錬を積んでおりました」
 皮肉なものだ。結果、は守りたかった人々を誰一人守ることはできなかった。
「……そうか。しかし、情に厚いのは良いが、後先を考えねばいずれ身を亡ぼすことになるぞ」
 見透かされていた。が人質達に情を移し、織田軍に不利益を与えかねない行動をとったことを。
 自然、背中が泡立った。
 こみ上げてきた怖気を唾と共に飲み下して、後は儀礼的な応答を二、三してその場を辞した。

────もしかしたら、この時、上様は純粋に私の甘さをたしなめただけだったのかもしれない。
 前年、信長は有岡城攻めで寵愛する側近を一人失っていた。万見重元というその男は、小姓から馬廻りに上がったばかりだったという。理知的で戦略謀略を得意とする男であったはずなのに、無謀にも思える特攻の末にあたら命を落としたのだと、は後になって知ることとなった。


***


 荒木一族成敗の報せは、人々の口に乗り瞬く間に広がっていった。
 戦乱の世の血生臭さに慣れている民草も、何百人もの女子供が情け容赦なく殺される様には衝撃を覚えたのだろう。
 しかし、人質をその場の恩情で生かしてしまえば、人質は人質の意味を成さず、それは新たな裏切り、戦を生むことになる。彼女らを殺すことは、荒木村重が降伏しなかった時点で致し方なかったことなのだ────
「そう、割り切ってしまえれば楽なのだけど」
 荒木村重が逃げ込んだ花隈城。
 眼前に迫る荒木軍の兵達を前に、は自嘲した。
「……まあ、どうでもいいか」
 陣中に攻め込まれ辺りは混乱を極めていたが、反面の心は冷めていく。やってくる兵は斬り捨て、味方を害そうとする者共を退け────命のやり取りが絶え間なく繰り返されているこの場にあっても、なぜか“他人事”のような感覚はぬぐえないままだった。
「覚悟っ!」
 それは、にとってどうということもない太刀筋だった。
 おざなりに半身を引いて避けようとしたところで、しかし兜の下から覗く眼光には射竦められた。
「──の仇じゃ!」
 ああ、もしかして。が処刑したあの女達の縁者だったのだろうか。
 避けられなかった刃はの肩口を捉え、その勢いのままには地面に押し倒された。
「死ね!」
 馬乗りになった男がの首目掛けて刀を振り下ろそうとした。しかしその刀が届くよりも前に、男の首は誰とも知らない足軽によって刈り取られていた。
「は、ははは……」
 男の血が雨の様に降り注ぐ。
 何が可笑しいのか分からなかったが、自然と笑いがこみ上げてきた。倒れこんできた男の死体を押しのけて、はまだ使える左手に刀を握り、再び敵を斬り殺していった。


……」
 懐かしい声が聞こえた。
 重い瞼を上げて、声の聞こえる先を探した。
「その声は、乱丸?」
「そうだ。良かった……このまま死んでしまうのではないかと」
「ああ。そう、また死にぞこねたんだ」
 そう言ってが笑って見せると、乱丸の眉間には例によって深く皺が刻まれる。こんなやり取りすら、酷く久しぶりな気がした。
「どうして此処に?」
「お前が負傷したと聞いて、遣いを願い出た」
 とにかく起き上がろうとしたを制して、乱丸は部屋を出た。心細さを覚えたは首だけを動かして辺りを見渡す。
 しばらくして、乱丸が白湯と粥を手に戻ってきた。
「陣中だから大したものは用意できなかったそうだが……食べられるか?」
 白い湯気を立てる湯飲みを渡され、は少し躊躇した。
 きっと血の味がするそれが、酷く不味そうに見えたのだ。
「水分だけでも取った方がいい。もう何日も寝込んでいたそうだ」
「うん……」
 意味もなく湯飲みを手の中で回して、は言葉を濁した。
 命を奪うことしかできない自分が、徒にこうして命を繋ぐことに意味などあるのだろうか────

「……前に、人を殺したことはあるかと言ったな。私は、まだない。お前が何に苦しんでいるのか、私には想像することしかできない」
 湯飲みを持つ手に乱丸の手が添えられた。
────温かい。
「しかし、いつまでもお前一人にするつもりはない。いずれ、私も馬廻りとして戦に出ることになるだろう。上様の命があれば、私は人を斬る。お前が地獄に堕ちるなら、私も一緒に地獄へ堕ちる。だから先に行くな。死に急ぐな」
 そう言って向けられた真剣な眼差しに促されて、は躊躇いがちに白湯を口へ運んだ。
 それが何の味もしないことが、こんなにも幸せなことだとは思わなかった。