沖田の話を聞き終えた永倉は、面白そうにニヤリと笑った。

「お前、このコに惚れてんでしょ」


そのはまだ明けない



「は? な、なに言ってんですか、永倉さん!」
 沖田の顔がゆでだこのように真っ赤に染まる。
 それを見た永倉は殊更面白そうに笑みを深めた。
「へーえ。総司はいっつも澄ました顔してるけど、色恋沙汰には初心だねぇ」
が女で良かったな! お前が女に目もくれずにとばっかりつるんでやがるからさあ。俺ぁ、お前とを吉原にでも連れてって、女の一つでも抱かせてやろうかと計画してたんだよ!」
 そう言って、原田はいつもの調子でガハハ、と豪快に笑う。
「……左之。お前がその計画を実行しなくて本当に良かったよ」
 永倉は呆れたように苦笑を漏らした。
「永倉さんも原田さんも……違いますよお」
「ふーん? ま、そういうことにしておいてあげようか」
 そう言って笑った永倉は、まるで新たな玩具を見つけた童子のようだった。
 未だに顔を赤らめて手をもじもじとさせている沖田の様子は、鉄之助が今まで見たことのない姿だ。鉄之助はよく分かっていなかったが、どうやら永倉の言葉は的を得ていたようだ。

「沖田さん、コイツにはこの薬を一刻置きに飲ませなければなりません。頼めますか」
「は、はい! 勿論です!」
 せっかく面白い所だったのに、取り澄ました顔の丞が話を切ってしまう。
 永倉の追及を免れた沖田はホッとした表情を見せて、丞の問いに即座に頷いた。
「けどさあ、総司。確か明朝、古高の屋敷を改めに行くんだろ? その間はどうすんのさ」
 沖田を苛めるのが楽しくなってきたようで、永倉はニヤニヤと笑いながら沖田に問いかけた。
 沖田はしどろもどろになりながら目線を泳がせる。
「あ、えーっと、それは、」
「全く、鈍いなァ。一人じゃ無理なんだから俺らも頼れってこと」
「そうだぞ、総司!」
 永倉は少し呆れた顔をして笑った。
 それにすぐに原田が賛同し、バシバシと痛そうな音を立てて沖田の背中を叩く。
 鉄之助も、一拍遅れて名乗りを上げた。
「お、俺もやりますよ、沖田さん!」
「永倉さん、原田さん、鉄クンも……本当に、ありがとうございます」
 そう言って沖田は嬉しそうに頬を緩ませながら、鉄之助達に頭を下げた。
 しかし一人だけ外されたのが不満だったのか、丞が不機嫌さを滲ませながらぽつりと漏らす。
「……その薬作ってるんは私ですけど」


***


 1864年、6月5日 早朝────
 まだ夜も明けきらない時刻であった。
 京の人々はいまだ眠りについている。人気のない通りを、沖田ら新選組は刀や槍がぶつかる金属音を鈍く響かせながら歩いていく。

 沖田らはある屋敷の前で立ち止まった。
 固く閉ざされた木戸を軽く叩き、来訪を知らせる。
「どなたはんどすか。お早いうちから────」
 奥から出てきたのは、桝屋の番頭だった。
 番頭は“訪問者”の顔を見るや、みるみる内に青ざめていく。
────山崎歩が、命に代えて暴き出した罪であった。
「お上に立てつく不逞の輩を囲いし罪は明白。歯向かう者は切り捨ててよし。誰一人として、屋敷より逃がすな!!!」
 沖田の号令で隊士達が屋敷内になだれ込んでいく。寝込みを襲われた浪士達は、満足な抵抗もできないまま捕縛されていった。

 ここに、件のくノ一はいるのだろうか。
 粛々と進んでゆく邸内の探索の一方で、沖田の心は急いていた。を襲ったくノ一を見つけ出し、一刻も早く、解毒剤を手に入れなければならない。
 屋外で隊士らに指示を出しながら、沖田は感覚を研ぎ澄ませていく。
「────沖田先生」
 己の名を呼ぶ、女の声。すぐさま沖田は声の聞こえた方を振り向いた。黒い影が視界の端に映った気がしたが、一瞬でその姿を見失ってしまう。
 沖田は女が消えた屋根に向かって飛び上がろうと狙いを定めた。

「────沖田先生?」
 己を呼び止める隊士の声に、沖田は膨れ上がった苛立ちを押し殺して返事をする。
「……はい、何です?」
「いえ、その……」
 隊士の怯えた様子に、沖田は徐々に冷静さを取り戻していった。
 あのくノ一を追った所で、沖田では屋根の上で十分に戦うことはできない。

「……山崎さんは、どうするんでしょうね」
 独り言のように呟いた問いの答えは、古高俊太郎が『捕縛された』という報告で明らかになった。
 山崎丞は、姉の仇討ちとして古高を殺すよりも、新選組の為に古高を生かして捕まえることを選択したのだ。沖田も同様に、自分が何を優先すべきかは分かっていた。
 血に染まったの姿が、一瞬脳裏をよぎった。


***


────終わらない悪夢のように、かつての記憶がの頭の中を渦巻いている。


 初陣で虐殺を請け負ったあの時から、の意識は夢と現実の境界線をふらふらと彷徨し、世界のなにもかもが、靄がかかったように不明瞭になっていた。


「姫さん! 夕庵先生から“あるへいとう”を貰ったぞ。良いだろう、一つ分けてやろうか?」
 が簡単な使いを終えて、城に戻ってきた頃だった。
 声を弾ませながら駆け寄ってきた虎松は、祐筆の先生から貰ったという南蛮菓子を得意げにの前に差し出した。
「……私は良いよ。そんなに好きなんだったら、虎松が全部食べたらいいだろう?」
 きっと虎松の好物なのだろうと、は気を使って断った。
「いや、俺はだなあ。お前が、最近……何というか、元気がないから……おいしいもん食べたら、前みたいにちょっとは笑うんじゃないかってなあ……」
 しかし取り分が増えたと喜ぶのかと思えば、虎松は何故かうじうじと語尾を濁らせて、が返した“あるへいとう”を食べようとはしない。
「別に、私は病になどなっていないよ?」
 虎松の意図がには分からず、何とも要領を得なかった。
「全く、虎松もも何をウジウジとしているの。ほら、美味しいから食べてみなよ」
 そう言って、虎松の横で話を聞いていた松寿が、“あるへいとう”の包みを開く。ひょいと問答無用で放り込まれた“あるへいとう”を、はしぶしぶ舌の上で転がした。
「……おいしいね。ありがとう、虎松。松寿」
 感想を求めている二人に対し、は笑顔を作って礼を返した。


 一日の勤めを終えたは、城を下りて居候している森家へと戻った。
 庭先でちょうど出かける様子の乱丸と行き合う。乱丸は宿直の為に城に上るところだったらしい。
「……。身体の具合は大事ないのか?」
 軽く挨拶を交わして屋敷に入ろうとしたところで、は乱丸に腕を掴まれた。不思議に思いながら振り返ると、乱丸が妙に真剣な顔で問いかけてくる。
「私はお前の指南役だ。何かあれば私に言え」
「ごめん、何のこと? 心配されるようなことは無いのだけど」
 は小首をかしげて疑問を返す。
 この頃はいつもそうだった。乱丸と言い、今朝の虎松達と言い、何故かのことをやたら気に掛けてくる。
「自分では分からないのかもしれないが、最近のお前は酷い顔をしている。食事もまともに食べていないと聞いた。辛いことがあるのなら相談してくれ。──私達は仲間だろう?」
 仲間、とは乱丸の言葉を反芻した。
「乱丸は……人を殺したことはある?」

 そのころのは、何を食べてももう、血の味しかしなくなっていた。