鼻孔をくすぐる線香の香りに、沖田総司は眉根を寄せた。
 線香の臭い。白い着物。真白い顔。
 身じろぎ一つしないの姿が、歩に重なる。

 着物はやむなく沖田が着替えさせ、きつく巻かれていたさらしも今は解いている。見慣れない胸のふくらみが静かに上下する────ただそれだけが、が生きているということを示していた。


嘘吐きの



「……貴方を戦いの場から遠ざければそれで済むと、思っていました」
 あの時。沖田が“あの場”に駆け付けたあの時、の着物は本来の色も分からない程に血で赤く染まり、雨に濡れた身体は氷のように冷え切っていた。
 それを見たとき、己がどれほど動揺したか。
 思わず抱きしめたが僅かに呻いた時、己がどれほど安堵したか。
────この感情の意味に気付く事が、沖田は怖かった。

「……さん」
 気が付いてしまえば、もう“これまで”には戻れなくなる────否、もう後戻りなど、出来ないのかもしれない。
 いつの間にか、沖田にはの居ない毎日というものが想像できなくなっていた。厨房を覗けば、食材と必死で格闘している。買い物に誘い出しては、涼しい顔をして重い荷物を押し付けてくる。隊士達に稽古を頼まれれば、一分の隙も与えず容赦なく叩きのめす。巡回から戻れば、渋い顔で「……お疲れ様です」と言ってすぐに目を逸らす。

「あなたはもう忘れたかもしれませんが、嬉しかったんですよ。あの時、あなたに『私は鬼ではない』ときっぱりと言われて」
 沖田は己の手をの頬に当てる。
 僅かに感じ取れる命の温かさに、自然と頬が緩んだ。
「だから、あなたも鬼に心を喰われたりなんてしないで下さい」
 沖田の言葉に呼応するように、伏せられたの睫毛が僅かに揺れた。
 ゆっくりと開かれる瞳に、待ちきれなかった沖田は身を乗り出しての顔を覗き込む。真っ黒な瞳の中に沖田の満面の笑みが映し出されたその瞬間────沖田の視界は反転していた。

「────す、ころす、殺す、皆殺しだ!」


***


「────!!」
 突然響いた泣き叫ぶような声に鉄之助は飛び起きた。
 声がした方を見やれば、沖田の居室から慌ただしく物音がする。急いで向かおうと駈け出したところで、鉄之助は一つ思い出した。
「う、うわっ!」
 泣き疲れて眠っていたためにすっかり忘れていたが、此処は屋根の上だったのだ。
 平衡を失って傾いだ鉄之助の身体は、寸でのところで引き留められた。
「…お前っ、何しとんねん!」
 強い力で襟元を引っ張られた鉄之助は、転落を免れたはいいが屋根瓦に強かに尻を打ち付けてしまった。仰向けに倒れこみ痛みに悶える鉄之助を山崎丞が呆れた眼で見下ろしていた。
「はは。お前も泣くんだな」
 丞の眼が少し赤くなっていることに気が付き、鉄之助はニヤニヤと顔を緩ませながら立ち上がった。
「……調子乗んなアホ」
 照れ隠しなのか、かなり強い力で肩を押された。冗談じゃない。再び傾き落ちそうになった身体を何とか立て直し、鉄之助は慌てて屋根にへばり付いた。
「な、危ねエだろ、ススムっ!」
「自業自得や。っておい、お前それよりな────」
 丞の声を遮るように、今度は何かが砕け散る音がした。
「ススム! たぶん沖田さんの部屋だ。行くぞ!」
 胡乱げだった丞の表情は真剣な眼差しに変わっていた。
 ふわり、と簡単そうに飛び降りた丞を追って、鉄之助は慌てて梯子を下り沖田の居室へと向かった。


***


 鉄之助に先んじて丞が沖田の居室の障子を引き開けた。
 そうして眼前に飛び込んできた光景に、鉄之助はガンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
────見慣れぬ女が沖田に馬乗りになって首を締めている。丞が女を引き剥がそうとしているが、それよりも強い力で女は沖田を縊り殺そうとしているようだった
「……沖田さんっ!」
 ハッと我に返った鉄之助は、丞を手伝い何とか二人がかりで女を沖田の上から退けた。しかし力任せに押しのけた筈の女は、すぐさま態勢を立て直している。
「お前、どういうつもりや」
「まっ、山、崎っさん…っう、ゴホ…待っ…ヒュッ」
 首を絞められていたせいか、沖田は激しく咳き込み、呼吸すらままならない状態だった。それでも女を攻撃しようと苦無を構える丞を必死で止めようとする。
 鉄之助は改めて女を見た。振り乱した黒髪の隙間から見えた女の顔は、鉄之助のよく見知ったものだった。
、お前、何で……!?」
「殺す、殺す、殺す、殺す」
 狂ったように繰り返すの手には、割れた湯飲みの欠片――恐らく先程の何かが割れる音はこれだったのだろう────が握られていた。が放つ強烈な殺気に、鉄之助の足は地に縫い留められたように動かなかった。
「皆殺しだっ……!」
 振りかぶられた切っ先が、沖田か、丞か、鉄之助か、いったい誰に向けられていたのか────それに鉄之助が気付いたのと、鉄之助がに飛びついたのは、ほぼ同時のことだった。
────ぽたり、ぽたり、と鮮血がしたたり落ちる。
 逸らされた切っ先はの腹を深く抉っていた。あのまま振り下ろされていたなら、内臓すら傷つけていたかもしれない。
 それでも尚、は振りかぶる。
さん!」
 躊躇なく、今度は心臓めがけて振り下ろされた陶片を止めたのは沖田だった。沖田はの手首を強く握りしめ、その手から陶片を奪い取るや開け放たれた障子の間から庭へと放り投げる。間髪入れず手首を捻りあげて後ろ手に回し、そのまま床に押し倒しての動きを封じた。
 丞も加わり、沖田と二人掛かりでを取り押さえる。それでも激しく暴れるの腹からはダラダラと大量の血が流れ出していた。
「鉄クン、原田さん達を……っ…呼んできて、ください。これ以上、抑えられそうにないっ!」
「は、はい!」
 茫然としていた鉄之助は、沖田の言葉に弾かれたように立ち上がった。しかし原田らを探そうと部屋を出たところで、いきなり現れた大きな壁にぶつかり尻もちをつく。
「……ってえ」
「わりぃ、大丈夫か?」
「なになに鉄クン、そんなに慌ててどうしたのサ」
 鉄之助がぶつかったのは原田だったようで、廊下に座り込む鉄之助の顔を原田が覗き込んだ。続いて原田の背中から、ひょっこりと永倉が顔をのぞかせる。
 しかし鉄之助は二人に事情を説明しようと顔を上げたところで、言葉を飲み込んだ。
「……さっき凄い音がしたと思ったケド」
「おいおい、こりゃあどういうこった」
 室内の様子を見た二人からは既に軽薄な笑顔は消えていた。鉄之助が口を開く間もなく、二人はずかずかと沖田達の下へ歩みよる。言葉も交わさずに意思疎通ができるというのか、苦し気な表情の沖田に代わって原田が丞と一緒にの身体を押さえると、永倉が傷口を押さえて止血を試みる。
「ゴホっ……すみ、ません…っ、原田さん、永倉さん。……でもっ、くんは…悪くない、んです」
「……そうは言うケド、首にはっきり手形が付いてるよ? それ、コイツがやったんでしょ?」
「でもっ……!」
 永倉が指摘するとおり、鉄之助は実際にその姿を見た。確かにが、沖田の首を絞めていたのだ。その影響なのか、未だ沖田の呼吸は苦しそうだった。
 未だに暴れ続けているを原田、永倉、丞、鉄之助の四人がかりで取り押さえていた。いったいどこからこんな力が湧いてくるのか、少しでも誰かが気を抜けばすぐに跳ね除けられてしまいそうだ。
 何でなんだよ、
────僅かに躊躇が生まれたその瞬間、鉄之助は力負けして押さえていた左腕を振り払われた。そのまま鉄之助に向かって振り下ろされた拳を、丞がその手首を掴んで止める。
 礼を言おうと鉄之助は丞の方を見たが、何故か丞は掴んだ腕を下ろそうとせず、そのままの左手を凝視している。
「あのくノ一……」
「何だよ、ススム! ぶつぶつ言ってねぇでちゃんと押さえろよ!」
────殺す、殺す、殺す、殺す……
 呪いの言葉を叫びながら、は泣いている。
 振り下ろす拳は、自分自身も傷つけている。
「─お―こ―」
「おい、どうした?」
 もはや丞はを押さえていた手を放し、何やら思案するように額に手を当てて俯いていた。
「おに──し」
「何、なんか分かったの?」
 永倉に促されて顔を上げた丞は、確信めいた口調で呟いた。
「“鬼殺し”や」