雨音に混ざって、小さな足音が聞こえた。
 山崎丞は、すぐにそれが誰のものであるか覚った。この新選組で、子供のナリをした者は奴──市村鉄之助──ぐらいである。

 苛々した。
 苛立ちに任せて乱雑に障子を開ければ、そこにはやはり、市村が居た。
 市村は自らこの部屋に来た筈なのに、丞の姿に身体を震わせ怯えている。
 それがまた、丞を酷く苛立たせた。
 そうまでして市村がここに来た理由ぐらい、丞には分かっていた。どうせ山崎歩の事だろう。理解はできる。しかし、納得はできない。なぜ、他人の為にここまで必死になれるのか。
 自分は、実の姉ですら切り捨てようとしているのに。


から



 丞は、市村鉄之助が嫌いだ。この子供は、丞が心の底に押し込めて蓋をしてきた部分を、容赦なく目の前に突き付けてくる。こいつは、丞が切り捨ててきた────切り捨てられていない“弱い自分”そのものなのだ。
 丞は目の前にある“弱い自分”を殺そうと、その首に手を伸ばす。
「お前さえ おらなんだら……こんな思い……」
「いいよ。……殴りたきゃ殴れよ。どうせ俺、お前のこと怒らせるくらいしか出来ねぇんだ。……その代わり、頼むからアユ姉の所に行ってやってくれよ」
 歩が浪士達に殴られていると知らせがあったらしい。

『ウチのこと姉とは思わんでええ。こっちも、弟とは思っとらん』

 幼い頃から丞はそう教えられてきた。忍びは非情であらねばならない。目的の為ならば、時に身内とて切り捨てねばならない。
 なのに、中途半端だ。
 市村の首を掴んだ己の両手に、“弱い自分”を縊り殺そうとするこの手に、力を入れることもできない。
「お前が行ったらエエやろ。泣かれて遺言聞いた仲や。……向こうかて喜ぶんやないか」
 絞り出した言葉は情けないくらいに震えていた。弱い自分をこれ以上覚られないように、丞は市村を開放して背を向けた。
「……待てよ、何でだよ。姉ちゃんなんだろ?」
 丞の袖を掴む市村の手は、恐怖からか小刻みに震えている。どうせ市村には何も出来やしない、と丞は油断していた。
 不意に腕を強く引かれ、そのまま土砂降りが叩きつける地面に引きずり降ろされた。振り上げられた拳を受け止めようと構えたが、市村は丞を殴ろうとはしなかった。
「……っアユ姉は、なあ、俺になあ、“弟”のこと、頼むって、お前のこと、頼むって…言ったんだよぉ……!」
 嗚咽に言葉を詰まらせながら、市村は何度も丞の胸を叩く。丞は、自分が心の奥底に閉じ込めた想いを、無理矢理引きずり出されたような心地がした。
 “姉ちゃん”なんて言う資格ねぇよ。
 諦めたように小さく零して、市村は去っていった。


***


 衝動的に、歩が殴られていたという四条大橋へ走り始めた。半端に身に着けた忍び装束は、まるで丞自身を表しているようだった。
 通報のあった現場に、歩の姿は無かった。
 がむしゃらに周囲を駆け回り、上から見た方が見つけやすいと屋根の上に飛び乗った。
 叩きつける雨のせいで五感もまともに効かず、丞はただ闇雲に辺りを探った。濡れた瓦に足を取られ、受け身も取れないまま屋根の縁まで滑り落ちる。
 起き上がろうと顔を上げたその先に、あったのは。

「────姉──上────」
 一歩、一歩、近づいた。
 丞は息をするのも忘れて、ただそこに立ち尽くす。

「あんたがそうなれば良かったのにね、無能なあんたが」
 頭の中は霞がかっていて、手足の先は痺れて感覚を失っていた。気配無く背後から掛けられた声に動揺する余裕もなく、丞は緩慢な動作で振り返った。
「今更来てどうするつもりだったの? 助けにでもきたのかしら、身代わりにした女を。中途半端なんじゃないの?」
 声の主は、丞がかつて背中に傷を受けた相手だった。
────俺が死ねばよかった。
 そんなこと、言われずとも分かっている。
「……うるさい」
「あんたが無能なせいで、その女は死ぬのよ。それに、彼もね」
「“彼”……?」
「あんたと違って迷わずその女を助けにきたわ。その女の恋人かしら? あんまり強くて こちらの手駒を削られそうになったから、手は打たせてもらったけど」
 丞には、くノ一の語る“彼”が誰のことなのか、皆目見当が付かなかった。丞に先んじて此処にたどり着いた隊士が居たのだろうか。
「彼に使ったのは『鬼殺し』よ。あんたも聞いたことぐらいあるんじゃない? ま、分かったところで手遅れだけど」

 頭の中にも土砂降りが降っているみたいに、ぐちゃぐちゃで、目の前のことも見えなくて、何も考えることができなかった。
 好き勝手に貶して去っていったくノ一を、追いかける気力もない。
「あねうえ……」
────ウチのことは姉とは思わんでエエ。こっちも、弟とは思っとらん。
 物心ついた頃から「姉とは思うな」と教えられてきた。丞自身も歩の事は赤の他人で、いつでも切り捨てられる存在だと思ってきた。
────もうちょい大きゅうなったら、ウチに化けて仕事するんやで。そうしたら、万一失敗しよってもウチは死んでもあんたは生き残れる。
 歩は、丞を“弟”としてずっと守ってくれていた。そんなことにも気付かずに、何でも自分一人でできると驕って、先走って、失敗した。その結果が、これだ。
「……姉、上」

 藍色の着物から覗く歩の身体には、至る所に屈辱と苦痛の跡が残されている。ぼろぼろになった歩の身体を丞は強く抱きしめた。
 氷のように冷たくなった身体に、丞の体温が奪われていく。
「あねうえ……」
「ススム……?」
 丞はハッと息を飲んだ。丞の耳は、降りしきる激しい雨音の中から、小さな小さな声を拾い上げる。
「……生きて、」
クンの、お蔭……。トドメを刺される前に、クンが来てくれたから……」
 潰れた右目と、腫れあがった左目を、歩はゆっくりと細める。切り傷だらけの右腕と、ちぎれて骨の覗く左腕が丞を抱きしめた。
「ごめんな……丞。お姉ちゃんらしいこと、何も、できひんくって……。普通の子供やったら…当たり前にできること、何一つさせてあげられんかった。……ずっと、あんたを、独りぼっちにしてきて……」
「そんなことない。そんなこと……」
「ウチはもう、一緒に居れんけど……。でも、あんたは一人や無い。“あの子ら”が居るんやから、一人で…なんでも、抱え込まんで…ええんよ……」
「俺は、姉上さえ居ったら……!」

 嗚咽は雨音にかき消されて、涙は雨垂れの中に溶けて行って────そうして山崎歩は、弟の腕の中で眠るように穏やかに、息を引き取った。


***


 市村鉄之助が駆けつけた時、丞の腕の中の歩があまりにも穏やかな顔をしていて、まるでただ眠っているかのようだった。
 歩の遺体は弟の丞によって屯所へと持ち帰られた。清められ、死化粧を施された骸の前で、幹部隊士達がその死を悼んでいる。
 新選組の屯所には、線香の香りと深く暗い悲しみが広がっていた。

「真っ青だ……」
 空を見あげて、鉄之助は零した。土砂降りだった空は、今は皮肉なほどに青く澄み切っている。
「……あいつ、大丈夫かな」

『あいつ、アユ姉の弟だったらしいな』
『アユ姉は あいつの身代わりになったらしいぜ』
 隊士達の口さがない噂話は、鉄之助の耳にも入っていた。
────それが本当なら、自分がしたことは。
 鉄之助は山崎丞の姿を追って屋根に上った。生気なく座り込んでいる丞を見つけ、しばらく逡巡した後に背中合わせに腰を掛けた。
「……ごめん…」
「……謝んな」
 謝っても仕方が無い事は分かっていた。どんなに謝っても、山崎歩が帰ってくることは無い。
「ごめん……俺が…俺…、っ…俺のせいで……ごめっ……」
 息が詰まる。何度も鼻を啜って抑えようとしても、涙が溢れ出てきて止まらない。
「謝んな。アホ」
「だけどっ……!」
 謝るなと言われても納得など出来なかった。
 歩は丞を助ける為にその身を犠牲にしたというのに、鉄之助は考えなしに丞を責め立てて、歩の覚悟を台無しにしたのだから。
「……身代わりにした女の所へ のこのこ助け行って、それで俺まで殺されてたら目ェ当てられへんわ。……なあ。ホンマ……あの女の言う通り、忍び失格や」
「だから、それは俺が……!」
「せやけどな。……せやけど。お前とあいつのお蔭で……俺は、姉上を見捨てずに済んだ。最初で最後やったけど、『姉上』と呼ぶ事ができた。……弟として見送れた」
 思わず丞の方を振り返った。
 丞は、穏やかな顔で空を見上げていた。その表情が、あの時の歩に、そっくりで。
 ああ、本当に姉弟なんだ、って。
 アユ姉はもう居ないんだ、って。
────やっぱり涙は止まらなかった。