「ああ、あれは、アユ姉だった……!!」
 掠れた声で告げられた事実に、頭の奥が痺れてすぐには言葉が出てこなかった。


りたかったもの



「比古、俺は局長達にこの事を伝えに行くが……」
「アユ姉は、どこに」
「え?」
「アユ姉は何処に居る、早く言え!」
 は男の胸倉を掴んで詰問した。
 今すぐ行けば、まだ間に合う、まだ────
「四条大橋を渡ってすぐの所だが……敵は十人以上居るんだ、一人で行くのは危険だ!」
「有難う御座います。では」
「おい、比古!」
 居場所を聞き出すと同時に、は男の胸倉を突き放すように開放し駆け出し始める。地面を叩きつける雨の音に混じって男の咎める声が聞こえたが、気にせず走り続けた。

「なんや、君。そない慌てていったいどないしたんや」
「申し訳ありません、事情は後で説明しますので!」
 小間物屋へと戻ったはおざなりに店主に詫びを入れると、自身の部屋から刀を引っ掴み性急に店を飛び出した。


***


「何処だ……どこに居る!?」
 男に教えられた場所に、アユ姉の姿は無かった。逸る気持ちを抑えて周囲を探れば、雨に流されつつも鮮やかな緋色が地面に残されていた。
 所々途切れながらも先へと続く血の路に、は渋面する。これはかなりの出血量だ。もし、これらが全て歩のものだとしたら、致死量に近いのではないか────

『ねえ、クン。貴方、ホンマの名前はなんていうの?』
、ですが』
『そう、チャンね! うん、やっぱりなあ。そっちの方がしっくりくるわ』

 雨に濡れた着流しの裾が、の足に纏わりつく。袴を付けてくれば良かった、と荒々しく舌打ちして微かに残る血の臭いを追いかけた。

『ですが……あまりその名では呼ばないでください。いらぬ疑いを掛けられては面倒ですから』
『ウチと二人だけの時はええやろ? ねえ、名前は大切にせなあかんよ。その名前は、チャンが生きてきた証なんやから』

 段々と血の臭いが濃くなっていく。は腰に帯びた刀を強く握り、足をさらに速めた。


***


 雨の音に混じって、男達の下卑た笑い声が聞こえてくる。
「────お前らええ加減にしときやァ。コイツ、もう反応しとらんぞ」
「お前は散々楽しんだんだから黙ってろよ。俺らァ、“この忍び”がコソコソ嗅ぎ回ってたせいで一週間もまともに出歩けなかったんだ。溜まっちまった分、こいつにゃあ責任取ってもらわにゃあ」
 彼女は街はずれにある打ち捨てられた屋敷の庭に居た。
 眼前に広がる光景に、は己の眼を疑った。
 ぼろ雑巾の様になった歩がまさに浪士達に凌辱されている。十人以上の男達に囃し立てられながら、一人の男が下品な笑みを浮かべ歩の尻を掴み自らの腰を打ち付けていた。────些かの動きも見せない歩の姿はまるで死体の様だ。
「そんな……間に合わなかったのか……?」

 怒りなのか、悲しみなのか、情けなさなのか。何れにせよの中で何かが、すっと抜け落ちるような感覚があった。
「汚い手で触るな……!」
「な!?っあ、あ、あああああ!!!」
 一息に距離を詰めたは、歩を掴む男の両腕を瞬きの間に斬り落とした。間髪入れず、絶叫する男の腹を蹴り飛ばす。動揺と恐怖が浪士達を支配する間に、は崩れ落ちる歩の身体を抱き留めた。
「……、くん?」
「アユ姉……」
 歩の右目は潰され、頬には何度も殴られた形跡がある。血の気を失った真白い肌と身体に刻まれた無数の傷痕が、歩が死の淵に居るという現実を突きつけていた。
 これだけの屈辱と苦痛を受けながら、歩は穏やかな顔でを見る。
「すぐ終わります。少しだけ、待っていてください」
 は帯を解いて己の着物を歩に掛けた。襦袢一つの姿で、浪士達に向き直る。
「お、お前、何もんや!?」
「知る必要は無いだろう。どうせお前達はこれから死ぬんだ」
 呆れた様に笑って見せれば、浪士達は激高して一斉にに斬りかかってきた。
 客観的に見れば“十数対一”という圧倒的不利な状況だろう。しかし、『一振りで三人を斬る』と謳われる飛天三剣流の使い手からすれば大した問題ではない。
「っ! ぐ、うわああああ」
「ぎゃああああ」
「ぐ、あああ」
 最初の一太刀で三人の利き腕を斬り落とした。雨に混じって降り注ぐ赤い飛沫を浴びながらは微笑む。
────ただ死なせるだけでは足りない。嬲り殺しにしてやる。
「この程度で怖じ気づくのか? 維新志士サマは随分と気が細いんだな」
「な、何やと!?」
 蹲る三人を見捨てて退こうとする男達に、挑発の意を込めて問いかける。突き刺す視線を意に介さず、は嗤笑した。
「お前達みたいな腐った連中が、一体どんな新時代を描いているんだ? ……なあ、教えてくれよ」
 男達は怯えるばかりで質問には答えない。一人がに背を向け逃げ出すと、堰を切ったように他の者を押しのけ我先にと逃げ出した。
 は狩りを楽しむように、ゆるりとそれらを追いかけた。逃げ出した男の一人に追いつき、その足の腱を斬る。支えを失い地に伏した男の頭を踏みつけ、泥水の中に押し付けた。
「お前、あの女忍の男か? わ、悪かったよ、だから────」
 耳障りだ。
 二の句を継げないように男の喉を貫いた。死にかけの魚の如く口をぱくぱくと開け閉めする様をは無表情で眺める。
────泥水を鮮やかな赤色が侵食していき、男はゆっくりと絶命した。
「……この程度では生ぬるい」
 歩が受けた屈辱と苦痛を、こいつらにも────久方ぶりに刀を振るう仄暗い悦びを、『アユ姉の仇討ち』という心地良さが強く煽り立てていく。

 次の“獲物”を見定め、追いかけようとした瞬間。
────不意に背後から殺気を感じた。己の首を狙っていた苦無を、は振り向きざまに弾き落す。
「流石ねえ、オニイサン」
「……何だ、お前は。邪魔するな」
 苦無の切っ先が左手の甲を掠め僅かに血が滲んでいた。は眉根を寄せて弾き落した苦無を拾い上げる。
 屋根の上からを見下ろす女が居た。頭を覆う黒い頭巾からは何故か金糸の髪が覗いている。長州方の忍びだろうか────邪魔するな。牽制の意を込めて拾った苦無を女に向けて投げつけた。
「……随分なご挨拶ね。危ないじゃない」
 女は大きく飛び退って苦無を避けた。
 は苦無投擲の訓練などした事が無い。力任せに投げた苦無は到底、女を傷つけられるようなものではなかった。
────なのに、何故。
 大げさにも思える女の行動に、何かが喉に引っかかるような感覚を覚えた。その直感に従い、はすぐさま左手の傷から血を吸いだし、吐き捨てる。そう、奴は“忍び”だ。
「あら、気づいたの。でも遅かったわね」
 女はそう言って口角を上げる。
────痛い。
 やはり、苦無に“毒”が塗られていたのか。
「……お前、何のつもりだ」
「あの人達を殺されると困るのよ。大切な“捨て駒”なんだから」
「“捨て駒”? お前ら一体、何をしようとしているんだ!?」
 女はを見下ろす。
────痛い。
 正直、長州の連中が何を企てていようとは興味が無い。しかしこれは歩が命を懸けてまで手に入れようとした情報だ。
────痛い。頭に焼けた鉄串を何本も突き立てられたみたいだ。
「教えられるわけないじゃない。知りたければ、私を捕まえてみたらどう? それともあいつ等を追いかけて拷問してみる?」
 明らかな挑発にのこめかみに青筋が立つ。刀を握る右手に力が籠った。
────痛い。痛い。痛い。痛い。
「そうだな。お望み通り、まずはお前から────」
 は女の居る屋根の上へ跳躍しようと膝を曲げた。しかし次の瞬間、ぷっつりと糸が切れたように身体から全ての力が抜け落ちていた。
「あなた、とても強いから。とっておきを用意したのよ」
 地に伏したの目の前に、女が下りてきた。
 動け。動け。動け。何度も手足に命じても、指先すら微塵も動く気配がない。脳裏を削り取られるような猛烈な痛みに徐々に意識が塗りつぶされていく。
 雨の中に女が消えていくのを、はただ睨みつけることしかできなかった。