────幾度となく死線を潜り抜けてきた人間は、自然と人の気配に敏くなる。『気が付かなければ死ぬ』という事を、身をもって知っているからだ。


流れ落ちる



 そろそろ夜が明ける頃だろうか────微睡んでいたは、居室へと近づく気配に飛び起きた。無意識の内に左手は刀を掴んでいる。
 しばらくして、はようやくその気配が沖田のものだと気が付いた。
 部屋の主である沖田がやって来るのは当たり前のことだ。恐らく夜の巡回が終わったのだろう。沖田がの寝ている間に戻ってくることは今までにもあったが、がこのように飛び起きることは無かった。
 何故か今日に限って、の剣士としての勘が警鐘を鳴らし続けている。

「────血の臭いがしますね」
 するりと障子が引かれ、沖田が部屋に入ってくる。小さく零れた沖田の呟きは、の背中をぞわりと泡立てた。
 断りなく押し入れを開けられ、ひんやりとした朝の空気が流れ込んでくる。思わず見上げれば、感情の籠らない瞳でを見下ろす沖田と視線が交錯した。
「どういう事か、説明してください」
 沖田は刀を握るの左腕を見ていた。途中で手当を諦めた為に斬られた袖はそのままで、真新しい傷が覗いている。
「……今日の稽古で、少し油断してしまいまして」
「その傷は木刀で出来るような類じゃない。それとも、さんは真剣で稽古をしたんですか?」
 沖田の皮肉るような声が突き刺さった。
 上手い言い訳も思いつかず、は俯き黙り込む。

「────何にせよ、早く手当をしましょう」
「そんな、必要ないですよ。単なる掠り傷ですし」
「掠り傷でも腐れば死にますけどね。さあ、腕を出して」
 そう言って沖田はの腕を掴む。素っ気ない言葉と相反して、その手つきは驚くほどに優しい。

 傷口を確認した沖田は、しばらくして包帯を持って戻ってきた。促され、は躊躇いつつも着物から左腕を抜いて肩を露出させた。
 沖田は慣れた手つきで傷口を消毒し、するすると手際よく包帯を巻いていく。
「……すみません」
「それは何に対しての謝罪ですか?」
「え……と、こんな、手当まで貴方にさせてしまって」
 沖田の語調には明白な怒りが滲んでいた。俯き戸惑いながらが謝罪すると、沖田は呆れたように深くため息を吐く。
「……はい、終わりましたよ」
「ありがとう、ございます」
 包帯を巻き終え、沖田の手が離れる。
 ぎこちなくは礼を言うと、居たたまれなさから早々に部屋を出ようと立ち上がった。
「やはり、あなたを新選組に留めたのは間違いでした」
 沖田から投げられた言葉に、は障子に掛けた手を下ろした。
────得体の知れない感情が足元から這い上がってくる。
「それ、は、どういうことです?」
「これは私の落ち度です。あなたのような人間を戦いの場に巻き込んでしまった」
「……見くびるな。覚悟なら疾うにできている!」
 は荒々しく向き直り、声を震わせながら沖田を睨みつけた。
「いったいどんな覚悟を? ……先刻、件の人斬りをもう少しで捕縛できるというところで逃してしまいました。奴には既に幾人もの同志を殺されているというのに。まあ、あなたはあの場にいたんだから知っていますよね」
 正座したままの沖田は冷え切った眼差しでを見上げ、淡々と断罪を続ける。一つ一つの言葉が槍の穂先のような鋭さでの心を突き刺していた。
「好き勝手動いて、かき乱して……あなたの存在は、新選組にとって邪魔にしかならない」
 何が分かる。お前にいったい何が分かる。
 訳も分からぬまま、寄る辺の無いこの世界に放りだされた私の気持ちが。
 言い知れない激情が腹の底から突き上げてくる。何故こんな所に飛ばされてきたんだ、何故あの時乱丸や上様と一緒に死なせてくれなかったんだ、どうして、どうして、どうして────貴方まで私を拒絶する。
 力なく振り上げた手は、簡単に沖田に掴まれてしまった。
「……さん、もうあなたは、此処にいない方がいい」
 の手を握りしめる力の強さと対照的に、沖田の瞳は揺れている。その語調は弱く、まるで絞り出すような声音だった。
「私を隊士に加えてくれ。どうせ得体の知れない人間なんだ、使い捨ての駒にすれば良い。攘夷派の浪士だって、命じられれば幾らだって殺してみせる。……私は命など惜しくはない」
「私は死に場所を与える為にあなたを此処に留めたんじゃない!」
 空気を震わすような沖田の激しい怒りにあてられ、は言葉を失った。
 沖田は視線を落とし、握りしめていたの手をゆっくりと下ろす。
さん、今すぐに出ていけとは言いませんよ。身を寄せられる場所が見つかったら、教えてください。如才ないあなたなら、きっと住み込みで奉公できる所もすぐに見つかるでしょう」
 それはまるで小さな童に諭し聞かせるような口ぶりだった。けれど沖田の言葉は何一つ、には届いていなかった。沖田の制止を振り切り、少ない荷物を手早く纏めては部屋を出る。
 背後から聞こえる苦し気な咳の音に、耳を塞いで────


***


 沖田の言葉通り、新たな奉公先はすぐに見つかった。
 朝餉を食べようと入った定食屋で、相席になった男が小間物屋の店主だったのだ。定食屋の常連らしいその男が、雇っていた人間が突然辞めて人手が足りないのだと主人に愚痴を零しているのを聞き、渡りに船と雇ってもらったのだった。

「ほんま“渡りに船”とはこのことや。よう知らん人間をいきなり雇うんは不安やったけど、君は細かいとこまでよう気い付くし、お客はんの反応も上々で」
「とんでもない。その日泊まる処すら決まっていない状態でしたから、こうして部屋まで与えてくださって、こちらこそ助かりました」
 無理を言った形であったのに店主が喜んでくれたのは幸いだった。お試しで働いた当日に部屋まで宛がってもらい、新選組を飛び出たは路頭に迷わずに済んだのだ。

────今朝方から降り始めた雨は徐々に強まり、天からは叩きつけるように雫が降り注いでいる。
「昨日は君の色男っぷりのお蔭でぎょうさんお客はんも来てくれはったけど、流石にこんだけ天気悪いとどうにもあかんなあ」
「ええ。このような天気ですと、そもそも出歩く人も少ないですし」
 は雇い主と茶を飲みながら雨に煙る往来を眺めていた。朝から店を開けてはいるが、生活必需品ではない小間物を態々こんな天気の日に買いに来る物好きはいないだろう。
────なんて穏やかなのだろう。新選組を離れてみれば、疑いの眼に気をすり減らす事もなく、同室の男に心を乱されることもない。
 もう、苦しいのは嫌だ。
 国の為、民の為────そうやって大義名分を並べて戦ってきたが、結局すべては自分の心を守るための言い訳に過ぎなかったのだ。本当は、傷つけられるのも傷つけるのも嫌だった。

 想いを巡らせながら意味もなく通りを眺めていると、人影のない大路を湿った足音が駆けて行った。
────あの男は。
「すみません! 何か、あったんですか!?」
 は衝動的にその男を追いかけていた。
 その男は新選組の隊士だった。ダンダラ羽織を着ていないことからすると恐らく今日は非番だったのだろう。
「っ比古、ここで何をして……いや、それより奴らが……数人の浪士どもが、よってたかって一人の女を!」
 男は顔面蒼白で酷く動揺していた。
「女……?」

 の脳裏に“あの人”の顔が思い浮かぶ。彼女は今、何の仕事をしている────

「ああ、あれは、アユ姉だった!」