沖田より先に屯所へと戻ったは、邪念を排除しようと水垢離の如く何度も井戸の水を汲みあげては頭から被り続けていた。
犬も食 わぬは
「おいおい、ちゃんがご乱心だぞ!」
「藤堂さん……私は真剣なんです。揶揄わないでください!」
暇つぶしに使われてはかなわない。は荒々しく藤堂の方へ向き直った。
「夏とはいえ風邪ひくぞー? 今朝方、総司と出かけてたよな。あいつはどうしたんだ?」
沖田の名に表情をこわばらせたを見て、藤堂は何かを察したように苦笑を漏らした。
「お前らねえ……痴話げんかは犬も食わねえぞ。さっさと謝って仲直りしなよ」
「なっ……!どうして私が悪いという前提なんですか」
「どうせちゃんがつまらない意地張って、余計なことしちゃったんでしょ? 素直が一番だよ」
確かに藤堂の言うことは尤もなのだ。反論したくてもできないは、渋面して藤堂を見返すだけで精一杯だった。
「────違うんですよ。今回は、確かに私が悪いんです」
後ろから聞こえた声にはっとしては振り返った。
そしてすぐさま後悔した。彼の顔を見ただけで、先刻の光景が鮮やかによみがえる。
井戸水で冷やしたはずの身体が瞬く間に熱を帯びた。
「へえ? なになに、二人のその顔。俺、がぜん気になっちゃうんだけど」
「まあまあ。藤堂さん、頭の傷はまだ塞がってないんでしょう? ちゃんと寝ていないと駄目ですよお」
「いたいけな後輩をからかって傷を悪化させた結果、死亡。うわあ、残念な感じで歴史に名を残しそうですね。同情します」
「……お前ら、こういう時は息ぴったりなのな」
そう言われて思わず沖田と顔を見合わせて、けれどすぐさま互いに顔を背けた。
「ほおー」
藤堂は沖田との顔を交互に見比べて含み笑いを浮かべる。
「何ですか人の顔をじろじろと」
「いや? なんでもねーよ。お邪魔虫はさっさと退散するから安心しな!」
「え、ちょっと。藤堂さん!」
好き勝手言い残し、藤堂は屯所の中へと戻っていった。
気まずい。いったいどんな顔をして接すればいいのか皆目見当もつかない。
「あ、そうだ! 私も急用を思い出しましたので、先に戻ります」
は芝居がかった口調で大げさに言うと、慌ててその場を立ち去ろうとした。
「さん、待ってください」
焦ったような強い力で腕を掴まれた。は俯いたまま沖田の方を振り返る。
「あの……後ではいけませんか? 私、本当に急ぎの用を思い出して」
────自分はどうしようもなくこの男に惹かれている。だからこそ怖くなる。果たして、沖田の方はどうなのだろうか、と。
「先程の事、謝らせてください」
「湯あたりでもしてらっしゃったのでしょう。私は気にしていませんから。沖田さんもどうぞ、一刻も早く忘れてください」
謝るということは、先程の行為は一時の気の迷いだったということだろう。沖田が心からすまなそうな表情をしていることがを一層みじめな気持ちにさせた。
早口でまくし立てるうちに声は震え、涙声になる。一刻も早くこの場を離れたかった。
「御免下さい」
背後から聞こえた足音に二人して思わず振り返った。
「あのー……さんは居てはりますか?」
達のただならぬ様子を感じ取ったのか、男はおずおずと要件を切り出す。その顔に、は見覚えがあった。
目元に滲んでいた涙を慌てて袂でふき取って、は努めて普段通りの笑顔を装った。
「は私ですよ」
「え!? でも、あんた女子やないか」
彼はが新選組を出奔した時に雇い入れてくれた小間物屋の店主だった。いわばの恩人である。
そして店主が驚くのも無理はなかった。
池田屋以来、は開き直って男装をやめていた。男物こそ着ているものの、不思議な事に男と間違われることはめったになくなっていた。
「あの頃は訳あって男のふりをしておりました。騙すような真似をしてしまい申し訳ありません」
「ああ……いや、そうか。まあ、は男にしとくには勿体無いくらい綺麗な顔しとったからな」
妙な納得の仕方をしていたが、があの時の店子だったということは理解してもらえたらしい。
「せやったら話が早いわ。あんたの荷物がうちの店に残っとったから持ってきたんや」
そう言って開かれた風呂敷包みの中には、が本能寺で森乱丸から贈られた着物が入っていた。
「そういえば……! ありがとうございます。それは私の大切なものだったので……。でもどうして私がここにいると分かったんです?」
「そりゃあ、あの池田屋の騒動ん時、隊服着て練り歩いとった壬生狼ん中にあんたの顔を見たからや。壬生狼なんておっかないし関わりとうなかったんやけど……」
「ああ、あれを見られてたんですね」
あの時と言えば、は沖田の返り血塗れの隊服を羽織っていた筈だ。周りの隊士も例外なく血塗れだったのだから、そう思われても可笑しくないだろう。
「やけど、これから戦も始まるゆう話やし、店畳んで田舎に戻ることにしたんでな。そんなん残ってたら夢見悪いからさっさと厄介払いしよう思ったんや」
は店主のこういう屈託の無さが好きだった。渡された着物の状態を見れば、が居なくなってからもこの着物が丁寧に保管されていたことがよく分かる。
「……店を畳まれるんですね。これ、本当にありがとうございました。もう会うことは無いかもしれませんが、どうかお元気で」
は着物の入った風呂敷包みをぎゅっと抱きしめると店主に向かって深く頭を下げた。
「せや! 女子やったんならちょうどええわ。これ、余りもんやけど」
そう言って渡されたのは瀟洒な細工が施されたかんざしだった。見るからに高価なそれには戸惑う。
「そんな、受け取れませんよ」
「給金替わりやから」
店主がさっと手を離してしまったのでも受け取らざるをえなかった。
店主は別れを惜しむ様子もなく去っていく。
一抹の寂しさと大切な物が手元に戻ってきた安心感を抱きながら、は屯所の方を振り返った。
「さん……」
思いがけない来客にすっかり沖田の事を忘れていた。思っていたよりも随分と近くに、感情が読み取れない顔で沖田が立っていた。
「あの、ではお先に失礼します!」
掴まれかけた手を避けて、は足早に歩き始めた。
「さん、待ってください。その着物って……ゴホッ…ゲホッ…」
背後から聞こえる物音で沖田がうずくまったのが分かった。
「……もう、何なんですか! まだ夏風邪が治っていないんだったらこんな所でぐずぐずしていないで早く部屋に戻ってくださいよ!」
は躊躇うことなく沖田を抱き上げると、そのまま横抱きにして沖田の居室へと走ったのだった。
「ふふ。さんは男前ですねえ」
「いいから病人は黙っててください!」