池田屋事変は混迷を極めていた京の情勢に大きな一石を投じることになった。
多くの志士を新選組に殺された長州一派はすぐさま軍を起こし、今にも洛中に攻め込もうと伏見街道、西国街道を進軍してきたのである。
始 まりの鬨が上がる
がらんどうの屯所を見て、は苦り切った息を吐きだした。
殆どの隊員が長州の進軍を防ぐために戦に出ていた。居残っているのは怪我や病気で戦えない者。
腹の傷が塞がり切っていないもまた、その一人であった。
「おや、さん。怖い顔してどうしたんですか」
廊下を歩くの前にひょっこりと顔を出したのは沖田総司だった。この男もまた、体調不良を理由に居残り組となっていた。
「どうもこうも。貴方は平気なのですか? こうしている間にも皆戦っているというのに、留守居番など……」
沖田にぶつけても詮無い事だとは分かっていたが、戦場に行くことすらできない不満は日に日に膨れ上がっていた。
「そんなの私も一緒ですよぉ。でも仕方ないじゃないですか、土方さんに留守番しろって言われたら。あの人、一度言ったことは何があっても曲げないんですから」
沖田はの苛立ちをへらりと躱す。戦場に行けないことをあまり気にしていなさそうな沖田の態度もを苛立たせた。
「ほらほら。あんまり不貞腐れないでくださいな。先の池田屋の報復として長州兵がこの屯所に攻め入ってくることだってあり得るんですから。留守を預かることも立派なお役目です」
の頭に沖田の手が載せられ、ぽんぽんと頭を撫でられた。それが聞き分け無い童に対する扱いのようで、の頬がむっと膨れる。
「そうだ。以前話を聞いてからずっと行きたかったところがあるのですが、良い機会ですから付き合っていただけませんか?」
「今しがた、留守居も大事な役目だと言っておりませんでしたか。舌の根も乾かぬうちに屯所を空けようなどと」
口をへの字に曲げたまま、は厭味ったらしく言い返す。自身に自覚は無いのだが、こうしてあからさまに不機嫌を表に出せるのは沖田を信頼している証でもあった。
「まあまあ、今なら藤堂さんも山南さんもいらっしゃいますし、ちょっとぐらいなら大丈夫ですよ! それに遊びに行くわけじゃないんですよ。傷や病に滅法効くと評判の温泉があるんです。さんも早く傷を治して戦に加わりたいでしょう?」
そう言って沖田は得意げな顔をしてを見た。悔しいがこの男、の性格や好みというものをよく分かった上で言っている。
「……なるほど。そういうことでしたらまあ、仕方ないかもしれませんね」
温泉は好きだ。しかも傷に効くというのなら尚更、心惹かれるというもの。返事をしながら緩みそうになる口元をは必死で引き締めた。
***
「中々、険しいところにあるのですね」
沖田の先導で深い山の中を分け入っていく。沖田曰く、地元の人間でも気軽に行くことができない山中にあるだけに、素晴らしい泉質でありながら、人も少なくゆっくりと湯を楽しむことができるのだとか。
「そう言いながら、さん息も切らしてないじゃないですか。ほら、あと少しで着く筈ですよ」
沖田の言うとおり、急峻な山道を登るぐらいはにとってそれほど難しいことではない。しかしこうも鬱蒼とした山の中にあっては、せっかく湯で身を清めたとしても、帰る頃にはまた泥を落とさねばならないだろう。
屯所を出て一刻程歩いた頃だろうか、ようやく木々の合間から白い湯けむりが顔を見せ始めていた。
「さん、あそこです。着きましたよー!」
鼻をくすぐる温泉特有の匂いに、もはや隠すことができないくらいにの心は高揚していた。しかも見たところ先客もいない。この温泉を心置きなく独占できるということだ。
「わ、ちょっとさん!」
は着物を岩場に置くのが早いか、飛天三剣流の神速をもってして湯だまりへと飛び込んだ。
もたもたしていた沖田は着物を着たまま頭からしぶきを被っている。
「はは! のんびりしているのがいけないんですよ!」
茶色く濁った湯に肩までつかり、肺いっぱいに鉄錆の臭いを吸い込んだ。少しぬるめの湯が汗ばんだ肌に心地いい。
木漏れ日が水面を照らしてキラキラと輝いている。
幸せだ。鬱屈としていた気持ちが溶けだしていく。
「もう。あんなに不満げだったのに、とっても楽しそうですね」
「ふふふ。ありがとうございます、沖田さん。こんなに素敵な温泉を紹介してくれて」
温泉の空気がいつもよりを素直にさせていた。
沖田が入ってきたのだろう、ゆらゆらと水面が揺れる。
「……いつもそれくらい可愛らしかったらいいのに」
「何かおっしゃいましたか、沖田さん」
「いいえ、なんにも」
お互い、湯で蕩けてしまった思考ではまともに喧嘩も出来なさそうだ。顔を見合わせて声を出して笑う。
「いい湯ですね。これは傷によく効きそうだ」
そう言っては身体をほぐすべく組んだ手を前に伸ばした。
血のめぐりが良くなった身体には、目立たなくなっていたいくつもの古傷が浮かび上がっている。
「随分と傷が多いんですね」
湯から出ていたの腕を沖田が見ている。
「……あまり、“生”というものに頓着していなかったものですから。傷を負って死んだとしても、別に構わないと思っていたので……」
腕だけでなくの身体の至る所に戦による傷が残っていた。多くが避けようと思えば簡単に避けられたもの。思い返せば織田信長の下で戦に出ていた頃の自分は、人質によって此岸に縛り付けられただけの屍のようなものだったのだ。
じっと沖田に見られているのが横目に分かった。何やら言いたげな顔をしている。
「……何ですか、乙女の裸をまじまじと見たりして」
照れ隠しは自然と揶揄うものになる。案の定、沖田は声を裏返して慌てていた。
「ち、違うんです! その……さんが生きていてくれて良かったと、そう思って……」
この男は、どうしてこうも真っ直ぐに気持ちを伝えてくるのだろう。
「なるほど、そうですか」
奥底から湧き上がってくる思いの行き場が見当たらず、返事は酷く素っ気ないものになってしまう。
「……すこし湯あたりしてしまったようです。お先に失礼します」
動揺を覚られたくなくて、は俯いたまま温泉から上がる。
「さん、待ってください!」
掛けられた声を無視して、乱雑に着物を掴んで取りも敢えずに肩に引っ掛けると一刻も早くこの場を離れようと足早に歩いた。
しかしそれこそが間違っていた。
「うわっ……!」
は濡れた岩場に足を滑らせた。まずい。このままでは頭から地面にぶつけてしまう。
「さん!」
────剣客集団として雷鳴轟かせる新選組の中でも、随一の腕前を誇るのがこのと沖田である。沖田は常人ではない速さでの身体を支えていたし、結局も自力で体勢を立て直していた。
「あの……沖田さん。もう大丈夫なので、放してもらえますか」
つまり沖田は無意味にの腹を掴んでいる状態であって、は湯で温まった身体がさらに熱くなっていくのを感じていた。
戦場で男の裸を見ることは日常茶飯事であったし、自分も裸を見られることに恥ずかしさはない。しかし、これは、駄目だ。
「ですから。もう大丈夫ですから、早く放してくださいよ……」
の言いようはもはや懇願に近かった。だのに沖田の腕の力はむしろ強くなっている気がするのだ。
「……筋肉達磨な上に傷だらけの醜い身体など、何が面白いのですか」
「この傷も、この身体も、全て合わせてさんという人間でしょう。何が醜いものですか。……私は、貴方の全てを愛しく思っているというのに」
胸を突き破りそうな勢いで心臓が暴れている。
肩口に沖田の息がかかった。
咄嗟に沖田の手を払って、みぞおちに肘をめり込ませる。
うずくまった沖田を尻目に、は袴まできっちり身に着けた。
そうして転がり落ちそうな急斜面を、は神速でもって駆け下りていったのだった。