彼女は今日も、彼の人から贈られた着物に身を包んでいる。


わしきは



 は鮮やかな色の着物をたすき掛けにして、手際よく配膳を手伝っていた。
 池田屋の一件で大きく名を上げた新選組は、隊士を増やして新たに賄方を雇い入れている。
 だから人手は足りている。それでも良い気分転換になるのだと言って、が賄方の仕事を手伝うこともあった。

『ごめんなさい、アユ姉』

 炊事場の道具を撫でながらがそう呟いていたのを、沖田は何度か見かけたことがあった。
 謝罪の理由は、彼女が現場に駆け付けながら歩を救えなかったことにあるのだろうか。
────ままならない人だ。彼女はその身一つに、全ての命を背負い込もうとする。

 配膳を終えたは、たすきを外して袂にしまう。その様子を見て、
「あれ、チャンその着物どうしたの?」
 と永倉が声を掛けた。
────彼女の顔が照れくさそうにほころぶ。
「随分前に人から貰ったものだったんですが、しまっているだけでは勿体無いと思いまして」
 そう言っては袖を持って広げて見せた。
 よく似合っている。贈った人の、彼女に対する想いが表れている。

 沖田の胸中に奥底から得体の知れない感情が舞い上がる。

「ふうん、でもそんな綺麗な着物、汚すのが怖くてまともに戦えないんじゃないの?」
「この前、手持ちの着物を駄目にしてしまったので……もうこれしか残っていないんですよ」
 は少しばつが悪そうに苦笑した。

 元々、その身一つでこの時代にやって来た彼女は、頑なに新しく着物を揃えようとはしてこなかった。それは、いつか元の時代に戻りたいという想いからくるものなのだろうか────

「それなら新しく仕立てりゃいいじゃねぇか」
 原田左之助が不思議そうに声を上げた。
 原田の疑問は尤もだった。池田屋に参加した隊士は、幹部でない者も報奨金として十両は受け取っている。新しく仕立てるにしても十分な額だ。
「……皆さんと違って私は報奨金を貰っていないんですよ。池田屋には行っていないことになっているので。そんな贅沢できません」
「そうだったの!? ゴメン、ちゃん! 君は俺の命の恩人だし、お礼に着物の一つや二つ買ってあげたかったんだけど……その……花街で全部使い来ちゃってさあ」
 藤堂が気まずそうに額の傷を掻いた。吉田稔麿に付けられたその傷は、の助勢が無ければ確実に藤堂の命を奪っていただろう。
「藤堂さん、どうかお気になさらず」
「だけどさあ……」
「“仲間”なんですから、あれくらい当然のことですよ」
 藤堂のことを“仲間”だと、はきっぱりと言い切った。
 自分のことではないのに、何故か沖田まで嬉しくなる。

「……さん。よかったら、これから街に新しい着物を買いにいきませんか」
 食べ終わった膳を下げるふりをして、できる限りのさりげなさを繕って、沖田はの背中に声を掛けた。
「はあ!?」
 和やかに永倉達と話していたが、凄まじい勢いで沖田の方を振り返った。その顔は怪訝そうに歪んでいる。
「あの……ですから、私は頂いた報奨金に殆ど手をつけてませんし……」
 の勢いに押され、声はしりすぼみになっていく。
「だからって何故、貴方に着物を頂く義理があるというのです。むしろ私が勝手にお借りした貴方の着物を弁償しなければ筋が通りません」
 は眉間に皺をよせながらまくし立ててくる。
 藤堂達への態度から酷い変わりようだ。余程、自分と話したくないのだろうか。
「……ええと、私もほら、吉田稔麿に具足を踏み抜かれて斬られそうになった時、あなたが庇ってくれたじゃないですか」

『大切な人すら守れない、そんな弱い自分は……っ嫌なんだ!』
 あの時彼女が叫んだ言葉を、沖田は今もはっきりと覚えている。
 それから彼女を抱きしめたときの、その身体の熱さも。

「ですから。あれぐらい当然のことで、わざわざ礼をして頂く必要などありません。次の給金が出たら、駄目にしてしまった貴方の着物の分はお返しします」
 全く切り込む隙が見えない。自分に向ける顔と着物の贈り主について語るときの表情の落差に、沖田は暗澹たる気持ちになった。
「あーもう、お前らごちゃごちゃ五月蠅ぇぞ! さっさと行ってこいよ!」
 しかしこのまま引き下がる気にもなれずぐずぐずしていると、永倉にその小柄な体躯に似合わぬ力強さでしたたかに背中を叩かれた。
 そして抵抗する間もなく門の外へとと共に放り出されてしまい、すぐさま門扉が閉められる。
 閂まで掛けられたのか、完全に屯所から締め出されてしまった。


***


 隣から大きなため息が聞こえる。彼女の気持ちを想像して沖田は申し訳なさで胸が苦しくなった。
「……あの、すみません。余計なことしてしまって」
「財布は持ってらっしゃるんですか」
「はい! 持っていますよ!」
 の問いかけに沖田は勢いよく頷く。
「でしたら、さっさと買ってさっさと帰りましょう。適当にそろえれば永倉さん達も納得するでしょうし」
 は苦り切った声のまま足を街の方へと向け、あれよあれよという間に遠ざかっていく。
「そうですね! せっかくだからいくつか仕立ててもらいましょう!」
 慌てて沖田はの背を追いかける。自然と心は高揚した。
「……人の話を聞いてましたか。数は必要最低限でいいですし、わざわざ仕立てずとも、古着で十分です。それとお借りしたお金は必ずお返しますから」
「ですから、“命の恩人”への心ばかりのお礼ですよ!」
 足早に歩くの前に回り込み、まっすぐにその眼を見た。のぎゅっと寄せられていた眉根が開いてぽかんとした表情が浮かんでいる。
 こうしてまた見えた新たな一面も、沖田にはたまらなくいとおしく思えた。

「……何度も言ってるじゃないですか。あれくらい当然のことでわざわざ礼をされるようなことじゃ……」
 顔を逸らされてそれ以上表情を見ることはできなかった。
 彼女はすっと沖田の横を抜けると、また足早に街へと歩き始める。

「……お礼というのは口実で、ただあなたに贈り物をしたいだけなんです」

 屯所からはもう随分と離れていて、辺りには人影もなく。
 この前の温泉の時だってそうだ。いつだって自分は浅ましい計算をしていた。誰にも見られていなければ、もしに嫌われてしまったとしても、きっと皆の前ではこれまで通りに彼女に話しかけることができるだろうと。
 彼女は何も答えない。
 しかしそれまで駆け足のように速かった足取りはだんだんと緩やかになっていき、と沖田の距離は徐々に縮まっていく。

「……さん」
 ついにの足が止まる。
 沖田はゆっくりとの前に出ると、俯くを下から覗き込むように見た。しかし彼女は視線を避けるようにしゃがみ込み、両手で顔を覆ってしまう。
「……さん」
「貴方に私の何が分かるんですか」
 がどんな顔をしているのか沖田からは見えない。声は少し震えている。
「分からないことばっかりです。分からないことばかりで……」
 だから沖田はたまらなく不安になる。もっと知りたくなる。この想いに気づかないままであればどんなに楽だったろうかと、恨めしくなるほどに。
 
 顔を覆う手にそっと自分の右手を寄せると、彼女は大して抵抗することなくその手を下ろした。
 視線が交わった。常に強い意志を宿す彼女の双眸は、今はゆらゆらと頼りなく揺れている。
「……貴方に私の何が分かるんですか。こんな、誰も頼る人が居ないからって、たまたま親切にしてくれた貴方に都合よく縋って、居心地がいいからと頼ってばかりで……こんな弱い、こんな醜い人間なのに……」
 絞り出すような切ない声音だった。
 期待しても良いのだろうか。これは都合のいい解釈をしているだけなのだろうか。自分の存在が、彼女をこの時代に留める楔になっているのだと。

 もっと知りたい。もっと近づきたい。彼女が自分の存在によって苦しんでいるのなら、もっと苦しめばいい。もっと悩めばいい。自分の事しか、見えなくなればいいのに。考えられなくなればいいのに。彼女の視界の全て、思考の全てを自分だけで占めてしまいたい。

 視界いっぱいに彼女の顔が映る。少し怯えるように後ろに引かれた頭を逃がさないように右手で閉じ込め、左手で目尻に滲む涙をぬぐいとる。


 触れ合ったのは、たぶんほんの一瞬だった。