ヒリヒリと肌が焼け付く様な緊張感が、室内に満ちていた。
 自分を紹介する乱丸の声をどこか他人事のように聞きながら、はぐるりと眼前に控える少年達を見回した。
 室内には、見目の麗しい若者達がずらりと顔を揃えている。誰も彼もが、織田門下名門の子弟という話だ。────この者達の父や兄が、私達の故郷を滅ぼしたのか。
と申します。よろしくお願い申し上げます」
 遠慮会釈なくじろじろとを見てくる小姓達に、膝をついて頭を下げた。
 乱丸の合図で、彼らは各々の仕事に戻っていく。去り際に向けてくる視線の中にはあからさまな敵意も混じっていた。は極力そちらを見ないように俯いたまま、乱丸の後ろについて廊下を歩いた。
 信長が、の小姓姿を見たいと申し付けたらしい。
────奴を“上様”と呼ばねばならないのか。
 屈辱的な思いにぎりぎりと奥歯を噛み締め、信長の元へと向かった。


現実と



「ほお、男姿もよう似合うておるな」
「……ありがとう御座います」
 込み上げてくる怒りを必死に抑えて礼をした。己の言動には女房達の首がかかっているのだ。
「流石は比古清十郎の娘よの。その名に恥じぬ働き、期待しているぞ」
「……は」


***


 信長の居室から離れ小姓達の控えの間に戻ったところで、ようやくは深く息を吐いた。どうやら柄にもなく緊張していたらしい。つい昨日、自分の首を賭けて信長と対面していた時には不思議と落ち着いていたのだが。やはり自分の一挙手一投足によって女房達の首が飛ぶかもしれないというのは────苦しい。
「失礼は無かったでしょうか」
「ええ、全く問題ありませんでしたよ」
 不安になって、思わず傍にいた乱丸に聞いていた。突拍子もない問いに対しても乱丸は真面目に丁寧に答えてくれた。たったそれだけの事で救われた気持ちになっている、自分の弱さを痛感する。
「ひーめ、おっつかれさまー!」
 考えるよりも体が先に動いていた。自身も何が起こったのか分からない。気が付けば、自分の体の下で男がうめき声を上げている。
────頭は混乱していてうまく働かない。深く息を吸い込んで、吐いた。
「えっと……貴方は」
「ちょ、それより何より早いとこ開放してくれる!? 俺の手、だんだん感覚がなくなって来たんだけど!」
 切羽詰まった様子で叫ぶ男をよそに、は少し冷静になった頭で何故こうなったのかを振り返っていた。そうだ、乱丸の言葉でほっとしたすぐ後に、この男が後ろから覆いかぶさってこようとして────の首元に回してきた男の腕を咄嗟にすり抜け、男の背後に回ってその腕を捻り上げ、地面に押し倒したのだ。
 そこまで考えて、はこの男を開放して良いものかと首をひねった。
「大丈夫ですよ、殿。そいつは私達の仲間ですから」
「ほら、だから、はやくっ! 放してよ!」
 よくよく見てみれば────小姓揃いの着物を着ているのだから一目瞭然だったのだが────が地面に押さえつけていた男の顔は、今朝方小姓達と顔合わせをした時に見た顔だった。ようやくその事実に気が付いたは、すぐさま男の腕を開放した。
「姫さんがここまで狂暴だとは……!」
「申し訳ない! 敵襲かと思い、つい……」
「虎松、お前がいきなり殿に組みかかるような真似をするから悪いんじゃないか」
 が捻りあげた腕をふるふると振る虎松に、は平謝りした。すぐに気が付いて然るべきだったのに、どうしてこうなるまで気付かなかったのか。小姓達は信長に仕える重臣達の子息で揃えられている。この男──虎松もその例外ではない。このような粗相が信長に知られれば────
「ちょっと、そんな深刻な顔しないでよ、姫さん! 半分は俺が悪いんだし」
「いや、半分どころか全面的にお前が悪いだろう。殿の対応は当然のことだ」
 虎松に強く肩を叩かれて、ようやくは失っていた体温を取り戻していった。
「ちょっと。乱丸は俺に対する当たりが強くない? そんで姫さんに対して親切すぎない?」
「私は殿のことを上様からお預かりしているんだ。当たり前だろう」
「乱丸殿。私は貴方達のただの後輩です。後ろ盾を何もない、ただの。ですから気を使っていただかなくても構いません。貴方に迷惑を掛け続けるのは、私の本意ではありませんから」
 の言葉に、乱丸は少し驚いた顔を見せる。
「……分かりました。では貴方が上様の小姓として立派にお役目を果たせるよう、先進誠意指導させてもらいましょう」
「はは、乱丸が本気を出すと滅茶苦茶怖いぞー。姫さん覚悟しなよ!」
 そう言って虎松はの背中をバンバンと叩いてきた。比古家の一人娘として生きてきた今までの人生からすればあり得ない扱いだったが、それでも遠巻きに突き刺さるような視線を浴びせられるよりも、よっぽどは嬉しかった。


***


 その後は、乱丸の後ろについて小姓の仕事を一つ一つ学んでいった。比古の城にも小姓達は居たが、信長に仕える小姓達は緊張感で満ちていた。僅かな失態でもお家の危機に直結する────そのような覚悟を持って、よりもいくつも年若い者達が自分の仕事を全うしていた。
殿はいらっしゃいますか」
「松寿殿、此処に」
 明け方から始まった小姓の仕事ももう少しで終わろうかという頃だった。小姓の一人がを呼びに来た。松寿は乱丸や虎松と同じ年の頃のように見えたが、彼らとはまた違った独特の雰囲気を持つ男だった。
殿……、ああ指南役の乱丸にも聞いてほしいのだけど」
 そう言われて、少し離れた場所にいた乱丸も松寿のところへと寄ってきた。松寿が小さい声でしか話さないので、三人は自然と額を寄せ合う形になる。

「どうした松寿。私達の本日のお役目は終わったところなんだが。火急の用でなければ明日にしてくれないか」
「すまないが……今日でなければいけないんだ。上様が、殿に今夜寝所まで来るようにと」
殿に? しかし……」
 は最初は何のことを話しているのか分からなかったが、真剣な面持ちで話す松寿の様子からだんだんと事の次第が読めてきた。寝所に呼ばれた────つまり今宵の伽を命じられたということか。
 結局、自分は女でしかないということか。
 はどうしようもない怒りを感じた。
 女だから。
 今までだってそうだ。城が落ちた時だって、女だからと母はを一緒には連れて行ってくれなかった。女だからと一緒に逝くことを許されず、こうして生き恥をさらし続けている。
「上様たってのご希望だから、下手に断ればどうなるか……」
「乱丸殿、松寿殿、大丈夫ですよ。私は、大丈夫」
 小姓として、男として仕えるのだから身体を求められることはないだろうと高をくくっていた。そんな甘い自分に、は吐き気がした。
「そうですか。では、宿居を変わってもらって、私も隣室に控えるようにしましょう」
「気遣いは結構ですよ。これでも武家の女なのですから、覚悟はできています」
 心配そうに見てくる乱丸の視線に、はあえて強い眼差しで見返した。意地だった。不幸な女だと、思われたくなかった。それに────それに、彼に伽の声を聞かれるなんて、耐えられなかった。


***


 松寿が用意してくれた小袖を身にまとい、年かさの小姓の先導で信長の寝所へと向かった。
 長い長い廊下がいつまでも続いてくれればよいのにとは願ったが、そんな願いが叶うはずもなく、ある一室の前で小姓が立ち止まる。目線で促されがその横に座して控えると、小姓が襖越しに到着したことを告げた。
 奥から衣擦れの音が聞こえる。これから自身の身に起こることが俄かに現実味を帯びてきて、は身体を強張らせた。
「入れ」
「……失礼致します」
 襖を開けると、信長は布団の上でを待っていた。小姓が静かにその場を辞すると、信長が手招くままには入室する。
 寝所に入ったの姿を信長はまじまじと眺めると突として笑い始めた。
 その意図が掴めずがぽかんとしていると、信長は布団から起き上がり、に相対して胡坐をかいた。
「確かにお前を寝所に連れてくるよう、松寿に言うたが。あやつは何か勘違いしたようじゃな」
「勘違い、とは?」
「儂は寝所に来いと言うただけじゃ。伽を申し付けた訳ではない。」
 呆然としているの顔を見て信長は心底面白そうに笑う。
「お前は、武を以て儂に仕えるのであろう? 寝所に呼んだはお前の話をよう聞いてみたかったからじゃ。お前の父、比古清十郎の治めた国はどの様なものであったのか」
「……それを聞いて如何するというのです。既に上様に滅ぼされた国の事にございましょう」
 信長は笑うのをやめていた。射抜くような真剣な眼差しに、の背中がぞわりと泡立つ。

「だからこそだ。だからこそ、以前よりも良い国にせねばならぬであろう」

────この男には勝てない、とこのときは悟った。
 人の上に立つことを運命づけられているかのような男だ。こうして相対するまでは、全てを捨てる覚悟さえ持つことができれば(つまり女房達を道連れにするということだが)信長の首を刈り取ることは造作もないと、は思っていた。けれど、容易くの牙は抜かれてしまったようだ。
「父、比古清十郎の治めた国は────」


***


 結局、寝所に朝日が差し込むまで信長との談義は続いた。
 信長の繰り出す質問はどれも鋭く核心を突いていて、は十数年間かけて培ってきた知識を一晩で丸裸にされたような気分だった。

 夜を徹した真剣勝負にはふらふらになって寝所を後にした。
 小姓揃いの装束に着替え、朝焼けに染まる石段を踏みしめながら森家へと帰路につく。
殿……!」
「乱丸殿、おはようございます。今からお勤めですか」
「あ、ああ。その……大丈夫か。体の方は」
「そうですね……結局明け方まで上様が眠らせて下さらなかったものですから、眠たくて仕方がありませんが。本日はお休みを頂きましたので、問題ございません」
 の言葉に乱丸はぎょっとしたような表情を見せた。
 その理由が分からず、は首を傾げたが乱丸はすぐに顔を逸らしてしまう。
 真意を確認したかったが、兎にも角にも襲い来る眠気には勝てなかった。乱丸を見送るやいなや、は寝床へと潜り込んだのである


***


 の言動は、乱丸にあらぬ誤解を与えていた。――しかし、はそれに気づくこともなく、伽をせずに済んだことに安堵しながら心安らかに惰眠を貪った。

 乱丸は涼し気な顔をして常の務めをこなしながら、心中では葛藤に葛藤を重ねていた。辛くはないか、体は大丈夫か、いったいどこまでされたんだ────さすがにそんな事までずけずけと聞くことはできず、乱丸は悶々とした気持ちに苦しむこととなった。

 しかし、乱丸の誤解はあっさりと解消されることとなる。
 何故かといえば、至極簡単な話であって、当日宿居だった虎松がずけずけと、面白おかしく、昨晩の様子を乱丸に報告したからだった。そして丸一日蓄積されていた乱丸の心配は、変な方向に爆発した。
 一日の勤めを終えて城を下りるやいなや、乱丸はに詰め寄った。安穏と惰眠をむさぼっていたはまさしく寝耳に水の怒りを向けられたわけで、家が軋むほどの大喧嘩が繰り広げられた。
 噛み合わぬ互いの主張をぶつけている間に、いつの間にか堅苦しい敬語は外れ、しばらくして二人は一つの結論にたどり着いた。
────全ての元凶は虎松じゃないか!