あの十五かそこらのクソ餓鬼を近藤さんが連れて来た時、俺は「ああ、ついに近藤さんまで梅毒で頭をやられたか」と思ったものだ。

 江戸での隊士募集があった折――確かあれは近藤さん達が幕臣として認められた頃の話だった思うが――近藤さんと共に京へとやって来た男達の中に、何故か餓鬼が一匹紛れ込んでいた。


さてもいけかぬ男



「おい。何をしている」
 斎藤一は、副長室の近くで不審な動きをしていた少年を見咎めた。
「何もしてませんよ。それに俺の行動を貴方にいちいち報告する義務はないと思いますが」
 振り返った少年の顔を見て、斎藤は先日隊に加わったとかいう餓鬼の名を思い出した。
────いけすかん。
 の顔を見て一番に浮かんだ感情がそれだった。
「ほう。君は隊の幹部の名と顔すら覚えられない阿呆なのか」
 斎藤はもはや癖となってしまった笑みを貼り付けながら、頭一つ下にあるの顔を見下ろした。
「まさか。もちろん存じておりますとも、三番隊隊長の斎藤一サン。ですが俺は一番隊の隊士で貴方の直属の部下ではないですし。俺に文句があるなら沖田さんを通してからにして頂けますか?」
 は斎藤の圧に怯む様子もなく、へらりと薄く笑う。斎藤を見上げるその眼には、上司を敬う意思など全く感じられない。
「お前が何番隊の隊士だろうと関係ない。弁明すらできないのであれば、この場で即切り捨てる」
 斎藤は殺意を言葉に入り混ぜながら目の前の少年を威圧した。
 斎藤の剣腕は浪士達も身をもって知っていようし、並みの間者であればこの程度の脅しでも効果はあるはずだった。
「ははは。勘弁してくださいよ。勘違いで殺されるだなんて真っ平御免です」
 斎藤は渋面を深くした。
 へらりへらりと此方の攻勢をかわそうとする姿勢は彼の上司を彷彿とさせる。
「……“勘違い”だと?」
「あれ、土方副長から何もお聞きになっていないので?」
 はわざとらしく驚いたように言う。
 長く隊内の粛清役を担い裏切り者どもの嘘を見破ってきた斎藤であったが、その表情の奥にある真意は見えてこなかった。

「ま、この場で貴方が俺を斬ると、困ったことになるのは副長達だと思いますよ。ということで、その刀を抜くのは副長達に事情を聞いてからにしてもらえますかね」
 はそう言ってちらりと斎藤の手元を見た。
 既に刀に手を掛けていた斎藤は、を睨みつけたまま踵を返す。
 副長達から話を聞いた上で、奴を斬る。
 殺す時期が少しずれただけだ、と斎藤は副長の部屋へと向かった。


***


 男達の気合いの籠った声が響き渡り、汗と熱気に満ちた屯所内の道場。
 木刀をぶらりと右手に提げて一人場違いなまでに涼し気な顔をしているの前に、斎藤は“牙突”の構えを取った。
「おい、。構えろ」
 腕に覚えのある新選組隊士達も、にはいい様に翻弄されて勝負にならないことが多かった。今日も自滅に近い形で負けを喫した隊士達が、悔しそうにを睨みつけている。
「ええ? 嫌ですよー。斎藤さんって隙あらば俺のこと殺そうとするじゃないですか。そんな物騒な人と仕合いなんてしたくありません」
 の言葉はあながち間違いではない。隠密御庭番集の任務で新選組にいるというを、粛清と銘打って斬ることは難しい。
 しかし稽古中のやむを得ない事故であれば別というもの。
「お前が俺より強ければ何の問題もないだろう」
「今朝からもう十戦してるんで、俺も疲れてるんですよ。弱った部下を苛めて何が楽しいんですかー」
 胡散臭い薄ら笑いは残ったままだが、頬が僅かに引き攣っている。
 分かりやすい餓鬼だ、と内心笑いながら斎藤はさらに挑発を続けた。
「先般、俺はお前の上司ではないと言われたように記憶しているが? さっさと構えろ。まあ、無抵抗で大人しく俺に殺されるというなら止めはせんが」
 木刀の先をに向けたまま斎藤はさらに深く腰を沈めた。隙を見せた瞬間に“牙突”を奴の腹に打ち込む構えだ。木刀でも餓鬼の腹を突き破る程度は苦もないだろう。

 無言のまま両手に木刀を持ち直したに対し、斎藤は“牙突”を繰り出した。


***


「あーもう! あのクソ糸目! やたらと俺に絡んできてホント何なんですかね! 隊長の癖に暇人なんですかね!」
 縁側に腰掛ける沖田の隣に陣取り、が人目もはばからずに吠えていた。
「まあまあ、くん。斎藤さんも新選組の為を思っての行動でしょうし。あんまり責めないであげてくださいな」
 いつもの調子で、沖田はの愚痴をゆらりとかわしている。
 いい気味だ、と斎藤の心中に愉悦が浮かぶ。
「そうは言っても限度ってもんがあるでしょう! 」
「確かに、最近の斎藤さんはくんにご執心ですねえ」
 ふと斎藤と沖田の目が合った。どうやら沖田は斎藤が近くにいたことに気づいていたようだ。
「沖田さん、早くお元気になってくださいよー。このままでは一番隊があのクソ糸目に支配されちゃいますよー」
────阿呆が。
 沖田はいつもの通り真意の読めない笑顔を返している。
 斎藤は庭を歩く足を速めて沖田達の会話に割り入った。

「おい。暇ならこれを揃えてこい」
 斎藤は雑多に連ねた買い物の一覧をの目の前に突き出した。
「……ええっと。これって全部斎藤さんの私物ですよね? ご自分で買いに行かれたらいいじゃないですか」
 の発言には端々に斎藤への嫌悪が込められていた。
「俺はお前と違って忙しいんでな」
 斎藤の言葉に、はあからさまに渋面する。
 それでも最初の頃は、表面上は取り繕おうとしていたようだ。今となっては明け透けに表情に出しながら、滔々と流れるように嫌味を並べ立ててくるが。
「いやあ、斎藤さんがいたいけな部下を苛めるのにお忙しいことは存じておりますよ。でも、俺には斎藤さんの好みに適う品物を買い揃えてくる自信は到底ありませんから。こんな世間知らずの若輩者に買わせても結局ご自身で買い直す羽目になるだけですよ。それこそ時間の無駄というものではありませんか」
「そうか。無能なお前には難しい頼みだったな」
 フン、と斎藤は満足気に鼻を鳴らした。クソ餓鬼が苛立っている様を見るのは気味が良い。

「ふふふ。斎藤さんはくんと話している時が一番楽しそうですねえ」
「馬鹿言え」
 明らかに面白がっている沖田を一蹴する。これ以上に構うとやぶ蛇になりそうだったので、本来の目的であった話題を切り出した。
「それより沖田君、今夜の巡回は君の所と一緒になるだろうが……体調は大丈夫か」
「心配いりませんよ。それにもしもの事があっても、一番隊にはくんという頼もしい戦力がありますからね」
「近頃は“人斬り抜刀斎”が頻繁に現れていると聞く。そいつがどれくらい奴の相手になるのか見ものだな」
「ああ、赤毛で頬に十字傷があるという」
 沖田は思い出すように顎に手を当てた。
 “人斬り抜刀斎”はここ最近になって表舞台に姿を現した長州派の人斬りだ。しかし恐らく数年前から京の闇に暗躍していたのではないかと斎藤は見ていた。
 新選組の隊士も既に何人か奴に斬られているが、斎藤はまだ“人斬り抜刀斎”と会ったことがない。
 しかし斎藤には、きっと抜刀斎は剣客としての己を高揚させる存在であろうという確信めいた期待があった。

「あれ、どうしたんですか? くん、大丈夫ですよ。人斬り抜刀斎が現れても僕か斎藤さんが斬りますから」
「……そうですね。斎藤さんはともかく、沖田さんと一緒だと心強いです」
 やけに青白い顔で、は曖昧に笑った。
 それが妙に斎藤の心に引っかかった。このという餓鬼は、感情を隠すのが一等下手なのだ。


***


 寒風が骨身に染みる頃、が人斬り抜刀斎に殺された。


***


 というのはどこにでもありふれた名だ。
 幕府崩壊に伴って急激に力を付けた商船とかいう会社の代表も、確か似たような名であった。

、か……」
 警視庁内の執務室に集められた地方紙の中で、斎藤は見覚えのある男の名に目を留めた。
 単独犯による大量殺人事件が起きたことは斎藤の耳にも入っていた。幕末の鬼才が打った刀の切れ味を試してみたいと、村人のほとんどを斬殺したという。

『犯人は現場に駆け付けた警官達をも斬り捨てていたところ、という隣村の駐在が一太刀で瞬く間に捕縛した』

「いけすかん奴だ」
 フ、と斎藤は鼻を鳴らした。
 久しぶりに奴が渋面する様を見るのも良いだろう。
「さて、どうやって奴を引きずり込むか……」

────それから数年後。
 折しも東京を訪れていたは、『既に辞令を出しておいた』という斎藤の嘘にあっさり騙され、警視庁で密偵をすることになった。
 そして『お前の仕事は抜刀斎の監視だ』という命令に、斎藤の思惑通り、思いっきり渋面することになったのである。